建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-3 キリスト者の復活③ピリピ1章(1)

ピリピ一・二〇~二三 死後キリストと共に
 パウロキリスト者の復活を 「キリストの来臨とは別の時点でも起こる」 と考えていたようにもみえる。はたしてそうであろうか。
 「私の渇望している希望は、…生をとおしてであれ死をとおしてであれ、 私の体でもってキリストが公然と栄光を受けられるようになることである。なぜなら私にとって生はキリストであり、死は利益だからだ。…私が切望しているのは、世をたち去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかに善いからだ」(ローマイヤー注解訳、一九二九、EKKの注解書はいまだ出ていない)。
 この書簡はエペソの牢獄から出された獄中書簡である。キリスト宣教のゆえにローマ帝国当局によってパウロは獄に入れられた。「私の拘留が近衛全体とその他すべてにキリストにあって公然と知れ渡った」(一・一三)。「今や裁判の公判がパウロの眼前に追っている。彼が無罪放免を宣告されて新しい活動に呼びもどされるにせよ、あるいは有罪判決をうけて死の権能の掌中に陥るにせよ」(バルト「注解」一九二八、川名勇訳)。パウロが、死すなわち「殉教の可能性を想定していた」ことは、「たとえあなたがたの信仰のいけにえの儀式に私が血を流すことがあろうとも、私は喜ぶ」(二・一七)からもうかがい知ることができる。
 「なぜなら私にとって生はキリストであり、死は利益だからだ」(二一節)について。
 「生はキリスト」は、説明不足で文意が必ずしも明らかではない。バルトはこの言葉に対する「決定的な注釈」がガラ二・二〇であるという、「私は生きている。しかしもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」。そしてバルトはこの「生」(二一節)を人間パウロ自身の「生」という意味(二二節「肉にある生」)に解してはならないという。パウロの「生」は《他なる》生であり、それはキリストご自身である。「この現在的な生の中にあるのは、私固有の生ではなくて、キリストなのだ」(クリソストモスの解釈、引用はバルトの注解から)。
 「私は生きている、しかし私の生はキリストによって逮捕され、拘留されている、こうして私に代わって、私のために、キリストが私自身の生を生きてくださっている。[キリストとの]間接的同一化である。…キリストは私に代わって代理的に生きたもう」(バルト)。キリストとのこの間接的同一化の箇所として次のものをバルトはあげた、「私たちの体に現われようとするイエスの生命」(第二コリ四・一〇)、「内なる人」(同四・一六)、「キリストにある新しい被造物」(同五・一七)、ガラ二・二〇「私を愛し私のためにご自身を渡したもう神のみ子を信じる信仰にある生」など。後にバルトはこの「生はキリスト」についてこう解釈した、パウロにとって生は「キリストへの奉仕の中での実り多い働きである」(「教会教義学」Ⅲ/2、四七節)。
 「自分の死は利益だ」(二一節)の意味について。
 パウロにとって死はけして一般論ではなかった。エペソでローマ当局によって近衛隊兵営に投じられて裁判を待つていたからだ。しかしこの文からはパウロの述べた内容はっかみにくい。現代人の感覚では「死はすべての終り、死んでしまえばそれまで」であるから、損失ではあっても、利益とは考えにくい。パウロにとって「死」は、すでにみたように、「殉教」を暗示していた。死はパウロに何をもたらすのか。ここではパウロが語っている文脈を把握することが不可欠である。前の二〇節でパウロは「生によってであれ、死によってであれ、私の体でもってキリストが公然と栄光を受けるようになる」との「希望」を述べた、ここでも「キリストが栄光を受ける」という視点から、彼の「死は利益」と解釈するのが、バルトのやり方である。
 「『利益』はたぶん、パウロが死後の生においてキリストと合一されることを望んでいるというように理解することは《できない》。この利益は『キリストが偉大となりたもう』[「キリストが栄光を受けられる、受身形」に対するバルトの翻訳]と関連づけて考えられるべきである。『死ぬためにこの世からたち去る』(二三節)ことが、なぜ《利益》を意味するかといえば、それは肉体の死、彼と共に死ぬことにおいてさえ、ある種の『キリストと共にある』(二三節)ことを意味するからであり、キリストはご自分に属す者たちを実際この『彼と共にある』の中に、彼との死との交わり(三・一〇「彼の死と同じ姿にされて」)の中に受け入れたもうことによって、彼らの体の生活において完全に《キリストは偉大となる》 からである。パウロキリスト者の生活に生じる《利益》は、コロサイ一・二四によれば、パウロの苦難によって満たそうとする『キリストの患難のなお欠けているもの』に対する対幅をなしている」(バルト「注解」)。
 ローマイヤーの注解は、バルトのものとは違って、パウロ自身にとっての「利益」を強調して、二三節と関連づけて「死後の生」のありようと解釈している、
 「殉教者は、自分の外的な運命の中に神的な惠みの啓示がすえられているのを知っている。来世的な栄光の光が当てられる時には、殉教の場合、この外的な現存在を神聖な域へとつくり変える。そしてこの現存在の束縛が解かれると、やがてキリストとの交わりが実現される。この束縛を解き放つのが死である。死は現存在からの解放であり、それによって究極の完成に至らせる。死は『キリストと共に』の生への祝福された《移行》である」(注解)。
 「死は利益」についての解釈は、 バルトの解釈「パウロの死をとおしてキリストが栄光を受けられるからだ」よりも、ローマイヤーの解釈「死後キリストと共にある生へと移行できるからだ」との立場のほうがよいと私たちは考える。
 「私が切望しているのは、(世を)たち去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかに善いからだ」(一・二三)が、この箇所の中心である。
 「世をたち去る・アナルオー」は、旅立ちを意味しているが、停泊した船が錨をあげて航海に出る旅立ち、あるいはテントをたたんで旅に出ること、の比喩的表現だという。第二コリント五章でも、パウロは人間の体を天幕にたとえて「地上の幕屋がこわされる」と述べて(一節)、「キリストのもとに住むことができるように、《体を脱ぎ去る》ことのほうを私たちは選ぶ」(八節)において、死を間接的に(ローマイヤー)あるいは婉曲に(ホーソン)示唆している。
 ローマイヤーの解釈。現代人の通常の考えとはちがって、パウロにとってこの「旅立ち・死」はけして終りではなく、むしろ「キリストと共にあることへの移行」である。み国では殉教者パウロは、友のようにキリストと永遠に一つにされるのだ。
 二一節では「生によってであれ死によってであれ、私の体でもってキリストが栄光を受ける」とパウロは語った。殉教者の証言と苦難とは教会とこの世に対して《キリスト》を明らかにする。死はこの啓示を真実ならしめる(「主体的真理の真理性は、その真理のために血が流されることによって証明される」キルケゴール「後書」)。かくて死において実現されるのは、《殉教者の個人的な救い》である。それゆえ死はパウロにとって「利益であり、はるかに善いもの」である。かくてパウロが、死を「生より善い」と語ったことを把握できるようになる。
 
アルバートシュヴァイツアーは、ここをパウロが「殉教の死をとげた場合には《死後ただちに復活させられて、キリストと共にあることが実現する》と考えていたとみる。
 「パウロは自分の囚われの状態が殉教の死をもって終るかもしれないことを考えに入れざるをえない。この場合にこそ、彼は《死後ただちによみがえってキリストのもとに移されること》を待ち望んでいる。…自分の殉教の死の場合には《特別の種類の復活》が与えられることを彼は待ち望んでいる。…起こりうるかもしれない死刑の宣告という思いに彼の意識がいかに強く関わっていることは、彼が自分を諸教会のために献げられる犠牲であるとみなしていることからも、明らかである」(「パウロ神秘主義」 一九三〇、武藤、岸田訳)。パウロ自身は自分の殉教をこう受けとめていた。「しかしたとえあなたがたの信仰のいけにえの儀式に、私が血を流したとしても、私は喜ぶ」(ピリピ二・一七)。
 シュヴァイツアーの解釈の特徴は、このパウロの言葉を第二コリント一二章の「パラダイスへ移された体験」「天に移されたエノク」と関連づける点にある。
 「しかし主の幻(オプタシア)と啓示を私は語りたい。私はキリストにある一人の人間を知つている。この人は一四年前、《第三の天に移された》-それが体においてか[体のままか]私は知らない、体の外部においてであったか、私は知らない、神がご存知である。この人は《パラダイスに移されて》、口では言えない、人間には語ることが許されない言葉を聞いた」(第二コリ一二・二~四、ブルトマン訳)。
 パウロと《天に移されたエノク》とを関連づけている点。「この後、エノクの名は、乾いた大地に住む者たちの中から、あの人の子、霊魂の主のみもとに生きながら移された」(後期ユダヤ教の黙示文学、エチオピアエノク七〇・一)。ヘブル一一・五「エノクは信仰によって死をみないように、移された。神が彼を移されたので彼は見えなくなった」。シュヴァイツアーはいう、
 「パウロは他の死者たちと同じような仕方でよみがえらされるのではなく、死の安らいから目覚める時《ただちに朽ちない体を所有し》、またその体でイエスと会うために《空中に移される》と想定していた(第一テサ四・一七)。それゆえイエスのもとに移されるという思想は、キリストにあって死んだ者の復活という観念自体のうちにすでに含まれている。…すでに天にまで移される体験をしたと自覚しているパウロは[第二コリ一二章]、自分の身に起こるかもしれない殉教を予想して、キリストにあって死んだ他の者たちよりも《さらにすぐれた仕方における復活を体験するとの期待》におそらく到達できたであろう。かくしてパウロにおいては、《自分の殉教の死の場合に、ただちに個人としてよみがえらされ、キリストのもとに移されるとの希望》が生じる」。
 ここで眼目となるのは「世をたち去ってキリストと共にあること」が、いわゆる「死後ただちに復活することなのか」、それとも「死と復活以前の中間状態にある死者のありよう」なのかである。
 ブルトマンは「キリストと共にあること」(一・二三)をパウロは《死後ただちに実現すること》を願っていると解釈している(「新約聖書神学」)。さらにG・F・ホーソンの注解(一九八三)も述べている、「パウロは、一・二三において主の来臨の折りの死者の復活とは別の見解を示唆しているように思われる。この見解によれば、キリスト者は死なんとしている時にただちに主のみ前に行って、主との人格的な交わりを味わう、すなわち将来的な復活は不要であって《復活は死の時点で起こる》との見解をパウロは示唆している」。