建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-4 希望に逆らう希望① 

希望にさからう希望
 「死後ただちにキリストと共にあって、やがて霊の体によみがえらされることを待ち望む」。これがキリスト者の希望の形である。これは、不滅への希望であり(マルセル)、目に見えないものへの希望である(パウロ)。古代ギリシャの希望像においては、目に見えないものに希望をいだくことは、愚かな行為とみなされた。「人々は、苦境に陥るやいなや《目に見える希望》を見捨て、《目に見えないもの》すなわち神託、占い、《人を活気づけては滅びに至らせる希望》のたぐいに身を投じる」(トゥーキュデイデース「戦史」五・一〇四、メロス島の会談、前四〇〇年ころ)。これに対してパウロは「目に見える希望は希望ではない」との反対命題を説いた。「しかし人が見ることのできる希望は、けして希望ではない。一体、見ることのできるものにどうして希望をいだかなければならないのか[知る、認めるだけで十分ではないか]。しかし私たちが《目に見えないものに希望をいだく》ならば、私たちは忍耐してその実現を待ち望まなければならない」(ロマ八・二四~二五、ヴィルケンス訳)。
 「目に見えないものに希望をいだく」場合には、 いまだ実現していない出来事が必ずや神によって実現すると信じることがポイントとなる。その場合「いかにしてその希望をいだくのか・スペース・クワェ」が眼目となってくる。そこではこの希望をいだくことを《可能にする支え》が不可欠となるはずだ。

ドストエフスキーは、キリストの亡骸を描いたハンス・ホルバイン(一六世紀ドイツの肖像画家)の絵「墓の中のキリスト」を観た時の衝撃を「白痴」(一八六九)の中で述べている。この絵はよく本の表紙に用いられる、吉村善夫「ドストエフスキー」、リューデマンの翻訳「イエスの復活」など。主人公の一人イポリートの言葉としてこう語らせている、
 「それは一筆もゆるがせにしない人間の死体そのものである。…十字架上の苦しみを堪え忍んだ人間の死体である。…この絵に描かれたその顔は恐ろしいまで打ち砕かれ、恐ろしいはれた血まみれの青痣でふくれ上がり、目は開いたままで、瞳は薮にらみになっている。この責めさいなまれた人間の死体を見ていると、ある一風変わった興味ある疑問が浮かび上がってくるのだった。それはキリストのおもだった未来の使徒が目にしたとすれば、キリストに従って歩き、十字架のそばに立っていた婦人たちが[ヨハネ一九・二五]目にしたとすれば、いったいどういうことで、《こんな死体を目にしながら、この受難者が復活するなどと信じることができるのだろう、 という疑問である》。もしも死というものがこんなにも恐ろしく、自然の法則がこんなにも強いものだとすれば、どうしてそれに打ち勝つことができるだろうという考えが、この場合ひとりでに胸に浮かんでくるはずである。…この死せる人を取り巻いていた人たちは、彼らの希望と信仰というべきものを一気に粉砕し去ったこの宵、必ずや恐ろしいわびしさと心の乱れを感じたに相違ない」(第三篇の六、小沼訳)。
 これは、キリストの復活に対する《人間的な不可能性》と対峙した場合の、たじろぎを述べたものだが、 《キリスト者の将来的な復活への希望もまた同質の不可能性》に突き当たっていると、私たちは考える。
 私たちは愛する者、親、子、祖父母、兄弟姉妹、親族、師、親しい先輩、友、教会の仲間などの葬儀に出た、:棺に納められたその亡散にも対面した、冷たくなった母の亡骸の類に手でふれたことさえある。火葬場でもその棺がかまどに入れられ、その後かまどから出されたその骨を見つめそれをひろい、骨壺に入れもした、 一ヵ月後くらいに行なわれる墓への納骨式にも立ち会ってきた。
 「来世のことやその掟のことは、われわれにはなに一つわからないのだ、と言ったほうがいちばん確かだろう」(前掲書、イポリートの言葉)という疑いに私も何度も襲われて、ほんとうに彼らが将来復活させられるのだろうか、と幾度もたじろがされた。

二つの証言
 ここで「キリスト者の復活への希望」について語った二つの証言に言及したい。
 一つの証言は、私の親族の一人、妻の伯母、渡辺キヨさんのものである。キヨさんのことを私たちは「おばちゃん」という固有名詞で呼んできた。おばちゃんは二〇〇〇年一二月に九二歳で天に召された。おばちゃんは生まれながらの盲人であったので、ともすると私たち親しい者たちは障害のある彼女のことを「何かしてあげる存在」と錯覚しがちであった。ところが私はおばちゃんと妻との会話をそばで聞いていて、それが誤りであることに気づいた。おばちゃんの悲しみは、弟豊三郎さんと妹(妻の母、長年同居した幹子・まさこ・高木幹太牧師夫人)が先に天に召されたことであった。このおばちゃんにとって唯一の慰めは《み国で豊ちゃん(弟)やママ(妹幹子)に逢えるからね》との思いにあった。それはたてまえ、理屈を超えた本音であった。よみがえりの時には自分も目の見える者として霊の体で立ち上がる、とも話していた。おばちゃんは私たち周囲の者にキリスト者の復活の証人、すなわち現代のキリスト者から脱落した、 この信仰の核心を私たちに証しし続けてくださったのだ、と私は考えている。
 もう一つの証言は、ドストエフスキーのもの。私は親しい者の死に接して、自分の中に先のキリスト者
復活への疑い、たじろぎが生まれた時、繰り返し読んできたのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のエピローグの箇所であった。
 イルーシャ少年の葬儀の後、コーリアという少年(亡きイルーシャの友人)が、主人公の一人、アリョーシャにこう質問する、
 「僕たちは誰でも死からよみがえって、ふたたび新しい生命を得て、またどんな人とでも、お互いに顔をあわせることができるって、宗教のほうでは言ってますけれど本当ですか? 本当に間違いのないことですか?『かならずよみがえります、かならずまた顔をあわせて、楽しく愉快に、かつてあったすべてのことをお互いに語りあうんですよ』と半分は感激し、半分は笑いながらアリョーシャは答えた。『ああ、そうだったらなんていいだろう!』とコーリャは思わず口走った」(「カラマーゾフの兄弟」一八七九、小沼訳)。
 先のハンス・ホルバインの、キリストの死の様を描いた絵をみた衝撃を「白痴」のイポリートをとおして語らせた内容はドストエフスキーの本音であろうが、他方ここでアリョーシャをとおして語らせた内容もまたドストエフスキーの本音であったろうと思う。この箇所をドストエフスキーの、復活信仰の証言と私は受け取ってきた。私は繰り返しこの箇所を読んでは、アリョーシャのこの言葉をとおして、自分のたじろぎを超えて亡き者の復活と来世での再会とを心の内で祈り願ってきた。クリスチャン・ホームに生まれ育った人々には素直に信じて疑わないエートス(習慣化した価値観)が、いわばパスカルのいう「習慣」として身についているようだ。その一人である私の家内の、素直に亡き者の復活を信じられるとの言葉「私は一度も疑ったことはないわ」に私は慰められてきた。

み霊の手付金
 さて私たちがこの希望をいだくために、人間的な不可能性を突破するのに支えとなる、一つの手がかりは「み霊という手付金」である。
 「私たちは現在の幕屋[地上的な体]の中で、苦悶し、うめいている。それを脱がされたいからではなく、むしろ[天からの住まい、霊の体を]上から着せられたいからだ。それによって死ぬべきものが生命に飲み込まれるためである。私たちにこのことを用意してくださったのは神である。神は私たちに《み霊という手付金》を与えてくださったのだ」(第二コリント五・四~五)。
 「み霊という手付金」の「手付金・アラボーン」は担保、手付金、保証のしるし、将来必ずご自分の約束を実行、実現させることを、神が私たちに保証するものである。このみ霊は洗礼において私たち信仰者に与えられた(「主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によってあなたがたは洗礼を授けられた」第一コリ六・一一、「神は私たちに証印を押して、《み霊という手付金》を与えてくださった」第二コリ一・二二)。
 「み霊という手付金」は、キリスト者が将来によって規定されていることを示している(ブルトマン「新約聖書神学」)すなわち将来において実現される神の出来事によって決定的に規定されていることをである。この将来的な神の出来事が、主の来臨と死者たちの復活である。しかしこれは現在においてはいまだ実現されていない。いまだ実現されてはいないが必ず実現する、との神のみ心を信仰者に保証するしるし、意志表明がこの「み霊という手付金」という概念・賜物である。神は死者たちの復活が必ずあることを保証し、その先取り、手付金として信仰者の洗礼儀式において「み霊」を授けてくださる。これによってキリスト者はキリストの体、教会の一員として、キリストと結びつけられ、キリストに属す存在とされた。したがってキリスト者の将来とは決してその者の《死ではない》、むしろ死の彼方において死後ただちにキリストと共においてくださり、肉体的体を脱がされた姿で待ちつつ、キリストの来臨・再臨の時、不死なる、霊の体によみがえらされることに希望をいだくようにしてくださる。これがキリスト者の将来である。み霊はこの将来を「忍耐して待つ」(ロマ八・二五)ように私たちを励ましてくださる。み霊はイポリートの、来世のことなど何ひとつわからないといった疑いが私たちの心に浮かぶことがあっても《救いの確かさへのうめき》によって(ロマ八・二七「み霊は言葉ならざるうめきをもって私たちを執り成してくださる」)その疑念を解消してくださる。