旧約聖書における絶望と希望(七)第二イザヤにおける希望-2
2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)
旧約聖書における絶望と希望(七)第二イザヤにおける希望-2
さて第二イザヤはクロス王についてこう語っている。
「私はヤハウエ、義をもってあなた(クロス)を召し、
あなたの手をつかんであなたを守り、あなたを
民の契約とし、諸国民の光とした。
こうして目の見えない者の目を開かせ、
囚われ人を獄屋から、
暗きに座す者を牢から出させる」(四二:六~七)
「ヤハウエは言われる、
クロスについては、彼はわが牧者、
わが意志をみななし遂げる、という。
ヤハウエは、その《受膏者》クロスにこう言われた、
私は彼の右手をつかみ、諸国民を彼の前に屈伏させ、
王たちの剣を解き彼の前に扉を開かせる」(四四:二八~四五:一)。
「わが僕ヤコブのために、わが選びしイスラエルのために、
私はあなた(クロス)の名を呼んだ。
あなたは私を知らないが、
私はあなたを指名した」(四五:四)。
「私は義をもって彼(クロス)を起こし、
彼の道をすべて平らにする。
彼はわが町を建て、わが捕囚の民を解放する。
値のためでも報酬のためでもなく」(四五:一三)。
ここではクロス王は「神の牧者」(四四:二八)「神の受膏者・メシア」(四五:一、受膏者はメシアのこと)「諸国民の光」(四二:六)「捕囚の民の解放者」(四五:一三)と呼ばれている。
第二イザヤの目は、クロスによってすでに巻き起こっている世界史的な政治的單事的な変動、メディア、リュデア征服に惹きつけられ、巻き起こされたうねりが今やバビロンにまで迫ろうとしているのを見て取っている。現在の閉ざされた補囚の状態、永続化固定化していているような捕囚の厚い壁を外からうがつような変化が起きたと映ったのだ。バビロニアの支配体制は今やクロスによって鎚(つち)が打ち込まれている。第二イザヤはクロスがなし遂げた征服事件の一つ一つにぴたりと当てられ、吸い寄せられ、白熱化した目でそれを追っていく。その政治的軍事的な激変が、自分たちの捕囚の運命にも大きな変化、解放をもたらすようにみえるからだ。第二イザヤの希望の形の一つは、この世界史的激動への希望である。その激動が自分たち「捕囚の民を解放する」可能性を秘めていて、彼ら捕囚の民の心に灯をともすからだ。
マルクス主義哲学者、古在由重の「戦中日記」(出版一九四八年ころ「著作集」所収)は、クロスのテーマと関連していると私は考えた。政治犯として(治安維持法違反)病気保釈中であった古在氏は、一九四四~四五年の項で、ヨーロッパ戦線における連合軍のシシリア島上陸、東部戦線におけるソ連軍の反撃、ドイツ軍のイタリアからの撤退などの状況を、新聞のわずかな報道を手がかりにして戦況全体を分析している。そしてドイツの敗北と日本の終局的敗北を正確に読み取っている。古在氏はこのような世界史的な激動の中に、自分たち政治犯の解放の遠くないのを確信している。これは第二イザヤの希望像である。この希望像がグローバルな、世界史的視点と関連するのも、両者に共通している。しかしながら、これだけでは第二イザヤは歴史哲学者となってしまおう。
第二イザヤの預言を読んでみると、二つの点で彼は政治的な領域を突き抜けている。
一つは、彼は世界史の真の支配者がクロス王なのか、イスラエルの神ヤハウ工なのかという問いを提起した。
新しい歴史的な変動の主動者はヤハウエであって、クロスは神の単なる「器」にすぎないと回答している。ラートはこのポイントについて述べている、
「イスラエルのみならず、全世界の注目をクロスに向けさせるのは、ヤハウエご自身である。ヤハウエがクロスを『起こした』のであり(四一:二、四五:一三)、彼に語りかけ、その手をとり、その名を呼んだ(四二:六、四五:一三)。…今や世界の統治者としてクロスがヤハウエの意志を行なう(四四:二八)。しかしヤハウエのこの世界史的な歴史計画の真の対象はイスラエルであり、そうでありつづける。彼らのためにクロスには世界帝国が備えられたのである。バビロンを征服して、捕囚の人々を故国に帰らせるのは、クロスであるからだ」。
第二イザヤが政治的な領域を突き抜けているもう一つは、クロスのテーマは四五章を頂点にして四八章(前半)をもって終わっている点である。これはクロスに託された使命が政治的解放に限定されているためであろう。第二イザヤの目は、クロスを超えてその背後にいます神ヤハウエに向けられる。「第二イザヤは歴史哲学者ではなく、むしろ歴史神学者である」(マルチン・ブーバー)。