建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第四章 辻宣道牧師の問題提起 キリスト者の罪責告白の問題-2

第四章 辻宣道牧師の問題提起   キリスト者の罪責告白の問題-2

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

国家と宗教という視点   キリスト者の抵抗のエネルギーは何から得るのか。
 「一五年戦争の時期、ドイツや朝鮮においては、キリスト者による抵抗が存在したのに、なぜ日本の教会ではそのような抵抗が起きなかったのか」という問いが存在する。私は「明治以来日本のキリスト者には《国家と宗教という視点が欠落していた》からだ」と考えている。
 日本のキリスト者が有効な抵抗ができなかった理由として「日本のキリスト者の《歴史に対する社会科学的な認識の欠如》があげられる」と指摘するのが、辻宣道氏の立場である。私はこれに対して異論がある。四つのポイントだけあげたい。
 第一に、果敢な抵抗をしたドイツと朝鮮のキリスト者において抵抗のエネルギーは何であったかを考えると、ドイツにおいてはキリスト教信仰それ自体から抵抗のエネルギーを得ていた、カール・バルトマルチン・ニーメラーらの神学文書「バルメン宣言」(一九三四年)によれば、キリストを主と信じる信仰がヒトラーへの絶対服従を拒否させたといえる。朝鮮のキリスト者においても、偶像礼拝禁止のエートス(後述)、キリストの再臨という聖書の歴史観が神社参拝を強制する日帝の植民地支配の終りを認識させ、間近い民族解放への希望と抵抗の力を与えた、と解釈できる。
 第二に、日本において抵抗したキリスト者のうちで、歴史への社会科学的な認識という尺度が妥当するのは、矢内原忠雄柏木義円くらいで、浅見仙作(無教会)の反戦活動や菅野鋭(ホーリネス、獄死)の天皇崇拝拒否などには当てはまらない。加えて矢内原の評論「神の国」(一九三四・昭和一二年、この論文で矢内原は東大教授を罷免された)では、聖書的なレトリーク・修辞法を用いて日本の侵略戦争を批判している。柏木義円の神社参拝強制への批判論は帝国意法の「信教の自由」を根拠に展開されている。ドイツや朝鮮、そして抵抗したキリスト者における《抵抗のエネルギーとしての信仰理解》を掘り下げることが不可欠だ。
 第三に、共産党への弾圧(一九二八・昭和三年)以後、一五戦争の時期、日本には「歴史への社会科学的認識」に基づく抵抗運動は存在しなかった(吉野作造「民族と階級と戦争」一九三二・昭和七年、家永三郎「戦争責任」)。共産党は一九三五年以後組織的活動を停止したと述べている(「日本共産党史」)。したがって社会的に存在しない運動方法をキリスト者たちだけに求めることはできない。
 第四に、一五年戦争の時期、キリスト者モーセ十戒にある偶像礼拝の禁止「あなたは私と並んで他のいかなる神をもってはならない」(出エジプト記二〇:三)を守るかどうかを追られた。この偶像礼拝禁止の戒め、エートス(集団化、慣習化した倫理観)によって朝鮮のキリスト者総督府の強制した神社参拝に抵抗した。日本の場合、柏木義円の神社参拝強制への批判的評論、あるいは神社参拝に抵抗したわずかなキリスト者にこのポイントがみられた(拙著「戦争責任」五八以下)。以上四点から「歴史への社会科学的な認識の欠如」より「国家と宗教という視点の欠如」というほうがよいと私は考えている。柏木、矢内原の場合特にこの視点は明確であった。政府の宗教政策に屈伏した戦時下キリスト者は、真の意味で「イエスは主なり、という告白が、臣民の道にまさって優位に立つことを骨の髓からわかっていなかったのだ」(辻宣道)。戦時下のキリスト者は神社参拝を国家および天皇への「忠誠を現わすもの」「臣民たるの義務」として受け入れ「キリストへの信仰告白」の上に「臣民たるの義務」をすえたのだ。九五年に出た諸教派の「罪責告白」は天皇崇拝、神社参拝の公認つまり神社非宗教論への宗教的、政治的屈伏を懺悔したものである。


戦責告白文書とその解釈
 敗戦五〇周年の一九九五年には、いくつかの教派、団体の戦争責任の懺悔・告白文書が出た。日本カトリック正義と平和協議会の「『教会の戦争責任』を考える」(資料集、B四版一三〇ページ)「新しい出発のために」(罪責告白、A五版九ページ)、明治学院大学「心に刻む」(A四版五〇。ページ)など。罪責告白のポイントは、その告白がどれだけ自分たちの「痛み」をともなって作成されているか、とおりいっペんのものでは、人々に訴えかける力もないし、真の懺悔にもならない。また今後その告白をどのように運動化させるかにポイントがあるといえる。拙著「宗教者の戦争責任」で述べたように、激しく抵抗した者こそ深い懺悔をしたのだ。 以下で二つの罪責告白文書を取りあげたい。

 プロテスタントの日本福音キリスト教連合の罪責告白文書 「第二次大戦における日本の教会の罪責に関する悔い改め」(B五版四ページ)について。
 第一に、日本の教会が始まってはじめて「天皇崇拝」をモーセ十戒に違反する偶像礼拝として懺悔した点は画期的ある。「私たち日本の教会は、かつて国家神道のもとで天皇を現人神とする偶像礼拝を犯しました」。この点は、日キ教団の「戦争責任告白」(一九六七年)がはるかに及ばない深い懺悔だと思った。 また神社参拝に関しても「国民儀礼の名のもとに礼拝の中で君が代斉唱や宮城遥拝を強要され取り入れた事実もありました」と懺悔している。懺悔・罪責告白文書に「偶像礼拝、神社参拝」の文言が明示されていないものは、懺悔文として具体性に欠け, 真実味に欠けると言える。
 第二に、日本の教会がアジア地域における日本国家の植民地・占領政策に協力した事実をあげ「アジアの人々への神社参拝の強要に積極的に協力しました」と懺悔している。
 そして一九三八年の旧日キ議長、富田満の、朝鮮の平壤での「神社参拝説得工作」にもふれ(拙著、第二章の四参照)。日本の教会がはじめて「アジアの人々への加害者としての責任」を明らかにした点が画期的といえる。
 この告白文書は、天皇崇拝、神社参拝という宗教的な領域における罪責と、アジアの人々に対して神社参拝を強制する政治的な領域での罪責とを表裏一体のものとして把握している。

 日本カトリック正義と平和協議会「新しい出発のために」について、ニポイント。
 第一に、「大東亜戦争」の目的は、大東亜の諸民族に課せられた不平等な覇絆から彼らを解放し「東亜に恒久平和の楽土を建設せんとにある」としるした土井大司教(戦後枢機卿)の主張が一九四三年の「聲」誌に掲載されたと、懺悔の内容がきわめて具体的である。
 第二に、神社参拝に関連してこう懺悔している、
 「日本カトリック教会は、国家権力の圧迫と介入があったとはいえ、一九三二年のいわゆる『靖国神社参拝拒否事件』を契機に『愛国心の表明』として神社参拝を受け入れ、後には同じことをアジア・太平洋諸国の兄弟姉妹にも強制しました」。
 日本のカトリックの神社参拝の「公認」は、ローマ教皇庁の通牒という形で権威づけられて発令されたが(一九三六年)、教皇庁は、戦後これに関して沈黙しているので、この罪責告白はきわめて意義深い。