建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

捕縛2  ル力22:47~53

1999-35(1999/9/26)

捕縛2  ル力22:47~53

 「イエスがなおも話しておられる時に、突然群衆が現われた。十二弟子の一人、ユダという名の者が先頭にいた。彼はイエスに接吻しようとして近寄ってきた。イエスは彼に言われた『ユダよ、接吻で人の子を売るのか』。イエスの回りにいた者たちは何が起ころうとしているかに気づいて言った『主よ、剣で切りつけましょうか』。彼らの一人が大祭司の召使に斬りつけて、右の耳を切り落とした。イエスは言われた『もうそれでよろしい』。そしてその者の耳「に触って癒された。それからイエスはやって来ていた祭司長たち、神殿守衛長と長老らに言われた『強盗に立ち向かうかのように、剣や棍棒を持ってやって来たのか。私が毎日あなたがたと一緒に神殿にいた時には私に手をくださかった。しかし今はあなたがたの時、闇の力悪魔の勢力範囲である』」

 平行記事はマルコ14:43~50、マタイ26:47~56、ヨハネ18:3以下。
 捕縛隊の問題。イエス捕縛に現われたのは、ここでは「群衆」とある。彼らは「祭司長ら、神殿守衛長と長老ら(自身)」(52節)と「その召使」(50節)であった。
 マルコ伝においてはもっと詳細に「祭司長、律法学者、長老ら(すなわち最高法院)から派遺された一群の人」(14:43)としるされ「神殿守備長」への言及がない。ところがヨハネ伝になると「一部隊・六〇〇人の兵と千卒長(指揮者)と最高法院から派遣された下役ら」(18:12)とある。すなわちローマ軍のエルサレム守備隊からも加わった「混成部隊」が捕り手であったという。ブルトマンの「注解」はこのローマの守備隊のアントニア城からの出動を史実的にありえないことと疑っている。ローマ軍の一部隊がエルサレムの外に夜間、治安を乱す一人の人間の逮捕に出動するとは考えにくいし、逮捕者をやすやすとユダヤ人に引き渡すともかんがえにくい。これについては派遣隊をあたかもローマ軍であるかのように「一部隊の兵と千卒長」と翻訳するからまずい、誤解を招くのだ。彼らはあくまで「ユダヤ人の捕縛隊」で、ヨハネ伝では「神殿警備隊とその頭である指揮者」のことを述べているとの解釈がある、プリンツラ一。ヨハネ伝はイエスの捕縛にやってきたのは、二つのユダヤ人組織からなっていて、一つは最高法院が派遣した刑吏隊ともう一つ、神殿守備隊長が派遣した隊とであったという。翻訳的には「一部隊の兵と指揮者」となる。
 しかもこの解釈はルカ伝のみにある「神殿守備長・宮守頭」の存在とうまく適合する。ユダヤ人の隊とローマ軍の隊との「混成」ではなく、最高法院の隊と神殿守備隊との「混成の捕り手」であった。ルカ伝は最高法院所属の隊員のみならず、議員らもこの場に出張ってきたという。
 「神殿守備長」52節。行伝4:1以下、神殿のソロモンの廊でのペテロらが説教したのを秩序を乱したとして神殿守備長「宮守がしら」が捕らえたとある。彼らレビ人の神殿守備隊は神殿の領域の守備に当るが、特別の危急の時、内乱の時、サマリアの暴動、ユダヤ戰争などには神殿の外部にも軍隊として出動したようだ。神殿守備隊は最高法院の命令でイエス逮捕に出動した。
 「召使」50節は最高法院所属の「刑吏」で、使用人一般ではなく、町村の秩序維持に当る者たちで、逮捕、連行、法廷への引渡し、投獄、判決の執行(鞭打ちなど)などを行なった警官的存在。ここでは最高法院のイエス逮捕命令を執行している。
 さて捕縛隊の先頭にはユダがいた。夜間での逮捕は間違いなくその当人を捕らえるのは難しい。それで前もってユダは「私が接吻するのがその人だ。それを捕らえ、手ぬかりなく引いていけ、あらかじめ合図を決めておいた」マルコ14:44。ユダはイエスに接吻しようとして近寄ってきた、ルカ22:47。次の48節「イエスはユダに言われた、ユダよ、接吻で人の子を売るのか」はルカ伝のみの記述。ルカ伝は、ユダの打ち合せにはふれず、イエスがユダの行動の意味を見抜いておられたと告げたいのだ。捕縛記事においてイエスご自身の意志が主動的である点を強調している。「売る」は「引き渡す」という受難用語で、イエスの受難予告、9:44、18:31~33(重要)などをふまえたものでその予告が実現したことを告げている。「人の子を引き渡す・売る」はイエスが「受難のメシア」であることをしめす。
 弟子たちの反応。マルコ14:50は弟子たち全員が逃げたという。捕縛の時点での弟子たちの逃亡を明確に述べているのは、マルコであるが、マタイとヨハネでは逃亡はなくペテロは連行されるイエスの後からついていくとある。ルカ伝も積極的な弟子たちの反応をしるしている。
 49~51節「弟子たちは起ころうとしてことに気づいて言った、主よ、剣で切りつけましょうか。(剣を持っていた)二人のうちの一人(ヨハネ18:10ではペテロ)が大祭司の下僕に切りかかり、右の耳を切り落とした。イエスはもうそれでよし言われた。そして《その者の耳にさわってお癒しになった》」。ここはマタイ26:52「その時イエスは言われた、剣をさやにおさめよ、剣による者は剣によって滅びる」。ヨハネ18:11「イエスはペテロに言われた、剣をさやにおさめよ、父がくださった杯、それを飲みほさないでよいだろうか」とある。
 大祭司の下僕は、マルコスといい(ヨハネ18:11)、彼の傷を癒してあげた、ここはルカ伝のみの箇所だ。イエスはご自分の逮捕時点でもご自分の真の召命が「救い主」(2:11)であることを示された、レンクシュトルフ。
 52~53節「それからイエスはやってきた祭司長、神殿守衛長、長老らに言われた『強盗にでも向うように、剣や棍棒を持ってやって来たのか。私が毎日あなたがたと共に神殿にいた時は、私に手をくださなかったのに。しかし今はあなたがたの時、闇の力』」
 ここでは捕縛隊ばかりでなく、彼らを派遣した最高法院と神殿守備長もこの場に居合せるという設定でイエスは彼らを抗議される。最高法院の刑吏や神殿守衛隊の隊員が「夜間に武装して非ローマ人の容疑者を逮捕する」権限を総督は認めていたようだ。だとすればこの逮捕は「不法な方法」ではない。それほどの明確な容疑があるのなら、なぜ白昼人々の目の前で、神殿の中であろうが、街中であろうが逮捕すればよいのに「民が騒動を起こすのを恐れて」(22:2)、夜間行動を起こしたことにイエスは抗議された。
 53節「今はあなたがたの時、闇の力」の意味は難しい。塚本訳は「しかし今は(この暗い夜こそ)《あなたがたの天下》、闇の縄張り(惡魔の勢力範囲である)」。マルコの14:49「しかしこれは聖書の言葉(イザヤ53:12「彼は咎ある者と共に数えられた」)が成就するためてある」とあってイエス逮捕は神の「必然」摂理の中にあったことを述べている。ルカ伝のほうは、マルコの記事をふまえて、捕縛隊・ユダヤ当局という人間の惡の力がイエスに対して振るわれる時であり《イエスも一行もこの悪の力に抵抗することをあきらめて》、その「闇の力」が善きものすべてを屈伏させる時だという。