建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

残りの者  イザヤ10:20~23

1999-8(1999/2/21)

残りの者  イザヤ10:20~23

 「その日にはこのことが起こるであろう、すなわち
  イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れ出た者は、
  自分を打った者にまたしてもすがることをせず、
  むしろイスラエルの聖者ヤハウエに真実をもってすがるであろう。
  残りの者のみ、ヤコブの残りの者は勇士なる神に立ち帰る。
  しかりあなたの民、イスラエルが、海の砂のようであろうとも、
  しかも彼らのうちで残りの者のみが立ち帰る。
  滅びは定められており、義は満ちあふれている。
  まことに定められた滅びを
  万軍の主なるヤハウエは全地のただ中に執行される」カイザ一訳

 「残りの者」の思想は、戦乱の絶滅をかいくぐって生き残った残存者の意味であるが、エリアの活動における「バールに膝をかがめない7千人を私は残す」列王上19:18は「残りの者の思想」 としてよく知られている。
 イザヤにおいては「残りの者の思想」は、すでに息子の名シアル・ヤシューブ(残りの者のみが立ち帰る、7:3)に見出される。他に「シオンに残された者、エルサレムに残った者は聖と呼ばれる」(4:3)「その日、主はその民の残りの者を買い取られる」(11:11)「その日には万軍のヤハウエは、その民の残りの者のために栄えの冠、うるわしき王冠となられる」(28:5)。
 10:20以下の「残りの者」の背景「自分を打った者」は誰であるか、を定着させるのは難しい。「捕囚後の時期において」残りの者が神に立ち帰る、とする解釈がある(関根、ラート、ヴィルトベルガーも後代のものと見ている)。これだと「自分を打った者」はバビロニアということになる。
 他方、10:24以下にある「アッシリアのものすごい進攻からシオンに向けて逃れる人々の状況」が考えられる。「万軍のヤハウエ主はこう言われる、シオンに住むわが民よアッシリアを恐れるな。たとえエジプトがしたように、彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても」(10:24)。だとすれば「自分を打った者」はアッシリということになる、カイザー、コッホ。
 20節「世界的権力者・アッシリアにすがらないで、ヤハウエにすがる(残りの者)」という表現は、イスラエルの民全体(20節「イスラエル」「ヤコブの家」)はもはや神による救いの対象とはなりえず、彼らが神による「ふるい分け」選別に堪ええないで脱落していき、その選別に堪えうるのは「真実をもってヤハウエにすがる」ところの「残りの者のみ」であるという。彼らが神の選別から脱落したのは、彼らが世界的権力者、アッシリアやエジプトにすがるからである。
 21節の「勇士なる神」は9:5以下のメシアの王位就任の名の一つ「神的勇士」からきているが、ここではヤハウエご自身のこと。
 22節。「たとえあなたの民イスラエルが海の砂のようであろうとも」は、創世22:17などのアブラハムに対する子孫增大の神の約束がふまえられている。
 後半の「滅びが定められている」。イスラエルに対する神の審判は、今や強大な外国軍の侵入で起こりつつある「災いだ、私の怒りの鞭となるアッシリアは。彼は私の手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かって私は彼を遣わす」10:5~6。
 「滅び」は定められた「神の選別」でもある。イスラエルの民がどれほど多数であろうとも、滅び・神の選別をかいくぐって生き残りの者が戦乱から帰ってくる、しかも単に故郷・故国に帰るのみならず、ヤハウエに立ち帰る。
 「残りの者」という表現自体、オリエントにおける戦争が敵の皆殺しを前提にしていたから、その厳しい戦乱をかいくぐって生き残ること自体は一方で戦乱の厳しさ、悲惨さを示している。他方この残りの者は民族再生・聖化のシンボルであった。
 イザヤの活動の最後の時期、前701年アッシリアの王センナケリブエルサレムに進攻してきた(36:1~2)。イザヤはヒゼキア王(アハズの次の王、在位前715~687、エジプトと同盟して反アッシリアの立場をとり、アッシリアの侵入を招いた)に向かって一つのしるしを告げた(37:30)。
 「今年は落穂から穀物を食べ、二年目は自然に生えたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実を食べる」。今年と来年は民はアッシリアの進入によって通常の農耕をできずに、食物の欠乏に苦しむが、三年日には通常の農耕が回復されて、十分な食物を得ることができるといつものであった。アッシリア王はエルサレム陥落できずに去った(37:37)。そしてこう続けられる、 
 「ユダの家の難を免れた、残った者は再び根を張り、上に向かって実を結ぶ。エルサレムから残りの者が、シオンの山から難を免れた者が現われる。万軍のヤハウエの熱心がこれを成就される」37:31~32。
 この残りの者はやがてメシアに属すところの来るべき民「聖なるレムナント」すなわちキリスト教会と解釈された。