建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死の中で神に出会うー5

パンフレット2-5

Ⅲ ルターの死についての見解

 

ルターの「死に対する準備についての説教」(抜粋)
 ルターは死への恐怖を訴えるある信徒の依頼に応答する説教を1519年に出版した。翻訳は1948年に藤田孫太郎訳が出た(「ルタ一選集I」所収、24ページのもの)。
 まず興味深く思ったのは、この当時のルターがカトリック教会が従来から執行していた「死を前にしたサクラメント秘跡ーー懺悔・塗油式、聖体拝受(聖餐式)」の三つをいまだ拒否していない点である。
 しかしこのサクラメントを「無効にする人間の行為」が三つあると彼は指摘する。第一に、死の恐るべき姿。第二に、罪の戦慄すべきさまざまな姿。第三に、陰府と永遠的呪詛の耐え難い不可避的な姿。これらは人間に神を忘れさせ、やがては神への不従順に至らせると述べている。そのようなものに打ち勝つには、あなたは神の恩寵の中で死んだ人々、死を征服した人々、特にキリストとその聖徒たちの中で死を見るように、熱心に努力せよと彼は語る。そうすれば、死はあなたを驚かせるものでも、残忍なものでもなくなる。むしろ軽蔑すべきものとなり、死はなお生きるものではあってもすでに絞殺され、征服されていることを銘記すべきである。そうすれば死の恐るべき姿は消え失せるという。「今よりのち、主にあって死ぬ死者たちは幸いなり」(黙示14:13) とあるように、あなたの心は平安で満たされ、キリストと共に、キリストにあって安らかに死ぬことができる。キリストの死のみをあなたが心にとめるならば、あなたは生命を見い出すであろう。
《十字架上のキリストがあなたの罪をあなたから除き去り、あなたの罪をあなたのために担い、これを無とするとは、まさしくキリストの恩寵であり憐れみである。このことを固く信じこれを疑わぬことは、恩寵の姿を見ることである》。
 あなたは確かになお、自分の中に自分の罪を見る。しかしあなたの罪はもはや罪ではなく、すでに征服され、キリストのうちに飲み込まれている。キリストはあなたの死が害とならないように、これを自ら担いこれを殺したもうた。キリストがこれをあなたのためになしたもうたことを、あなたが信ずるならば、キリストはあなたの罪を自らの上に担い、あなたのためにまつたき恩寵によってこれを彼の義において征服したもうであろう。パウロはこれをこう言う「神を讃美し、神に感謝せよ。神はキリストにおいて罪と死の征服をわれらに与えたまえり」(Iコリ15:57)。
 ルターはさらにサクラメント秘跡)について論じる。従来カトリックでは、サクラメントとして、パンのサクラメント聖餐式)、洗礼のサクラメンの他に、悔い改め、告白(懺悔)、堅信(礼)、結婚、叙品(按手)、終油の「七つ」を定めていた(1520年に出たサクラメント論「教会のバビロン捕囚」でルターは聖餐式と洗礼について、全体の半分のページ数をさいている)。ルターは述べている、《もし人々が大胆にサクラメントを信ずるなら、彼は喜んで死ぬ大いなる理由が与えられる。なぜならキリストご自身は教職者を通して行われるサクラメントにおいて彼(教職者)と共に行い、また語り、活動する。そこでは人間の業、言葉は行われないからだ》。ここでは神ご自身がキリストにおいて語りたもうたすべてのものが、あなたに約束される。かくて神はサクラメントが真にそのしるしであり、その記録であることを欲したもうのである。《キリストの生命はあなたの死を、彼の服従はあなたの罪を、彼の愛はあなたの陰府をご自分の上に引き受けて、これを征服したもうたのである。サクラメントすなわち独りの教職者によって宣言される神の外的な言葉は、目に見える神の言葉であり、耳で聞かれる説教の言葉に付加されるのであるが、これは全く大いなる慰めである》。これはいわば神のみ心の見えるしるしである。このしるしはあたかも家長のヤコブヨルダン川を渡った時、持った「固い杖」のようなものである(創世記32:10)。また暗きにともる灯火のようなものである(詩119:105、Ⅱペテロ1:19)。そしてルターはいう、これ以外に死の困難に臨んで助けとなるものはないと。なぜなら支えられうるものはすべてこのしるしと共に支えられるからだ。あなたは罪と死と陰府に向かってこう言うことができる『キリストの生命は私の死を彼の生命において征服し、キリストの服従は私の罪を彼の受苦において根絶し、キリストの愛は私の陰府を彼の神信頼において粉砕したもうた。神はこの恩寵の確かなしるしをサクラメントにおいて私に約束し与えたもうた』と」。

ルターの贖罪論
 ルターは十字架を人間イエスの業としてではなく、むしろイエスをとおしての《神の行動》とみた。
ルターはガラテヤ3:13「キリストは私たちのために呪いとなられて、私たちを律法の呪いから解放してくださった」について「ガラテヤ書講解」で述べている。「イエスは人類の罪をご自分の罪過として引き受け、受けねばならない刑罰として私たちのために苦しまれるという仕方で、十字架をご自分の上に負うたのである。イエスご自身は不安に陥れられ、〔神の〕永遠の怒りに驚愕した良心の恐れと戦きを味わいたもうたのだ」(引用はパンネンベルク「キリスト論要綱」Ⅱの7)。すなわちルターはこのようにイエスの死の意味を私たちに対する罪の裁きが彼をとおして遂行された、と認識したのだ。
 ルターは死を「眠り」と述べた、死を眠りと把握することは彼にとって二つの意味があった。キリストの復活をふまえると、一つは死は人間に対する力を失ったこと。もう一つは死はもはや最後のものではない点である。信仰者にとって死は確かになおも存続しているが、もはやその力をもってはいない。「死はもはや終わりではなく、復活への門である。…キリストはすでに永遠の生命に再生なされた。信徒たちもそれに続くのである」(モルトマン「神の到来」Ⅱの4)。

 詩篇90篇講解」
 この講解は、大学でなされた講義録の出版である(1535年、翻訳は1978年に金子晴勇訳が出た)。
 ルターは古今の哲学者たちの「死に対する対処方法」に言及して述べる。古代ギリシャのエピクュロス(前280年ころ、哲学者)について死を軽蔑する立場とルターはみた(周知のようにエピクロスは述べた「死は私たちと何の関わりもない。なぜなら私たちが存在する限り、死はそこに存在しないし、また死が存在する時、私たちはもうそこに存在しないからだ。…食べ飲み踊ろう、死んでしまえば快楽はない」)。この見解に対してルターはこう批判した「死は軽蔑されることによっては克服されるものではない」。他方、ルターはアリストテレスの見解をも批判した。アリストテレスは《死を想う修練》がいつそう死を耐え易くする救済手段であると考えたが、「怒り〔死〕の後に続く生命と憐れみへの希望〔死後の永遠の生命〕がない場合には、「死を想う修練」よりもエピクロスの徒であるほうが明らかによい。このような異教徒の知恵は役にたたない」。
 ルターは、この講義でモーセ〔詩90篇の著者をルターはモーセ自身とみなした〕の職務を「死をきわめて恐るべき色彩でもって描き出し《神の怒りこそ死の根拠である》ことを示す」という。モーセは「死・神の怒り・罪」に対する峻厳なる奉仕者である〔パウロの言葉Ⅱコリント3:6~9「もし文字で石に刻まれた『死の奉仕』が栄光のうちになされるとすれば、『霊の奉仕』ははるかに栄光のうちになされるのではないか」参照〕。
 ルターは続ける「モーセはこの90篇で《死を神の怒り》と呼び、人間の死と禍の生成因と目的因として《怒りの神》をわれわれに対立させて立てている」。しかもモーセは死を「身体的な死」のみならず、われわれが「永遠の死」〔いわゆる第二の死・滅びとしての死〕にも服しているとみなしている、とルターは解釈した。
 ルターは詩90篇の副題「神の人モーセの祈り」に着目していう、死は人を戦慄させて絶望へと導くが、他方そこに生命への希望が残されていることをこの副題「モーセの祈り」は暗示している、と解した。「祈りとは、神のもとには《赦しの可能性》があって、この破滅的不幸〔死〕に対抗する確実な救済策である。死に対決して祈るとは生命を希望することではないか。…モーセはこの詩90篇の副題そのものによって、死に関する恐るべき教えに対抗する救済手段を提示している」。
 死への対抗策として、ルターは90:1「主よ、あなたは幾世代にわたって、私たちの《逃れ場》〔通常の訳語は「住みか」〕であらせられる」の解釈で述べている、「モーセが言わんとしたのは、われわれにとり希望のすべては神のうちにもっとも確実に与えられいているということ、神を逃れ場としてもち、神の尊厳を安全かつ永遠に憩うことのできる住居のように持っているゆえにこそ、神に祈る者はこの世にて重い罰を受けることも、死に至ることもなく、確固として立つであろう、ということである」。
 さてよく知られた90:12「われわれの日の数を知るように教えて、知恵の心により歩ませてください」の講解の中でルターはいう。ここでモーセは、自分たちの死期をあらかじめ告知してくだるように祈っているのではなく、人生がいかに悲惨で禍に満ちたものであるか、無限の歳月の人生が自分に残されているとの空想をしないように、自分の人生には死が待ちかまえていることに熟慮せよ、と勧告している。
 12節冒頭の「主よ」との呼びかけ、かかる神に対する呼びかけそれ自体において、現世を超えた他なる生(それが恵みの下にある生活であれ、神の怒りの下にある生活であれ)が存在していることが告白されている」とルターは解釈した。
 ルターはこの講解において、「われわれが死ぬということは、人間の罪に対する神の耐えがたき怒りから生じている」「神の怒りこそわれわれの死の根拠である」と強調しているが(「詩篇の主題について」)、他方「神の怒りを感じることは呪われるべきものではなく、救いの開始であるとわれわれは確信しなければならない。救いの開始は絶えざる祈りなしには獲得しえないものである」と福音的な解釈をした(「12節の講解」)。
 7節「あなたの怒りによってわれわれは消え失せ、あなたの憤りによって脅かされるから」。ルターはこの7節を詩篇90全体の頂点であるという。モーセは人間と他のものとの相違を、人間のみが罪と神の怒りとが自分の死と結合しているのを感じ取っている、という。人間は罪のゆえに神の怒りにより死をこうむることを知つているのに、どうして人間の本性は「平然たる心をもって死を耐え忍ぶことなどできようか」。そこで人間の理性は神の怒りを回避するために、それを軽蔑する道か、それを冒瀆するかの道をとった。16世紀のオランダの人文主義者、エラスムスは批判した、キリスト教は現世のさまざまな不幸の後に、地獄の業火で人々を脅かしていると。これに対してルターはこのような脅迫的な害悪に対しては不信と発狂以上に適切な救済手段はないと反論した。他方エピキュロスは神の怒りとか、罪の意識から自己を解放するよつに忠告したが、ルターは彼を批判して述べた、エピクュロスは神を知らないだけでなく、自分が現に身に負うている不幸に気づいていないと。
 ルターは続ける、「われわれの死は他のすべての生物の死よりもいつそう恐れるべきである。どんな生物も人間のように《死の恐怖によって苦しめられ》ことはない。…キリスト教徒と神を畏れる人たちは、自己の死が神の怒りに由来することを知っている。したがって彼らは《怒りに燃える神と相まみえて自己の救済を確保すへき組み打ちするよう強いられている》」(「7節講解」)。
 最後によく知られた、 ルターの特徴的な死の把握を不す箇所を引用したい。
 律法の声は『生のさ中にあってわれわれは死のうちにある』と安心しきった者たちに不吉な歌をうたって戦慄させる。しかし他方、福音の声は『死のさ中にあってわれわれは生命のつちにある』と歌って力づけてくれる」(「詩篇の表題について」)。
 この箇所はルターの著作の中でもよく知られているが、また他の説教においても、同じニュアンスでこう述べられている、
 「私たちは生のさ中で死の中にいる。それを逆転せよ。私たちは死の中で生命のさ中にいる。キリスト者はそのように語りそのように信じる」(「マリアの帰郷記念説教」引用はユンゲル「死」Ⅳから)。


Ⅳ 死の中で神に出会う


 バルトは「人間は死ぬ時点で神に出会える」と述べている。私はこの見解に驚かされ、同時に強く惹きつけられた(「創造論Ⅲ/2)。
 「償うこのできないこのとどこおり〔人間が罪咎の弁済ができずに、それがとどこおっていること〕の中で、私たちは自分たちの存在から『非存在』へと移っていくであろう。したがって私たちは《神に出会う》であろう」(725)。
 「私たちが終わってしまうところで、私たちを待っているのは、死ばかりではない。《神もまた待っておられるのである》」(740)。
 「神が私たちに対して死の中でも現臨したもうならば、私たちは死の直中にあって、ただ単に死の中にあるだけでなく、また神からしてすでに『死から超え出ており、死の上にある』のである。私たちは死ぬ。しかし神は私たちのために生きたもう。それゆえ私たちは神にとっては、死の中でも滅び失せてしまうわけではないし、実際滅びてしまうことはない。私たちはいつの時にか、存在しなくなるであろう。《しかし神はその時にも私たちのためにいましたもう》」(前掲書、743)。

 旧約聖書は《神を見た者は死ぬ》と述べている。
 モーセは神に告げられた「あなたは私〔神〕を見ることはできない。私を見てなおも生きている人はいないからである」(出エジプト33:20、士師13:22)。
 預言者イザヤは神殿で神の姿を見た時、こう告白した、「わざわいなるかな、私。私は滅び失せる。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に生きているのに、私の目が万軍の王、ヤハウェを見たからだ」(イザヤ6:5)。
 ヨブ記においては二つの「神との出会い・見神」が登場する。一つは見神へのヨブの希望。ヨブ19:25~26「私は知る、わが義を回復する者が生きておられることを。彼は最後の者として《ちりの上に》お立ちなるであろう。《わが皮をはがされて後、わが体を離れて》、私は神を見るであろう」(ホルスト訳)。この箇所ではヨブの死後、陰府が想定されている。「ちり」は地上のものではなく、陰府のもの。「わが皮をはがされて後、わが体を離れて…」は、彼の復活のことではなく、彼の死後、陰府における彼の存在のありようを示している。失われたヨブの「義を回復する者・ゴーエール・神」が登場するのは、ヨブの死後、この陰府おいてである。その時その場所でヨブと神との関係が修復される(「私は神を見る」)。従来、神の出現も、救いの出来事も決して起きないとされた陰府での神との出会いを、彼は待ち望んだのだ。特に、ヨブのこの待望は、バルトの 「死の中で神に出会う」との見解と共通したものを感じさせる。
 もう一つの見神は42:5「私は耳をとおしてあなた〔神〕のことを聞いてきました。しかし今こそ私の目があなたを見ました」。ヨブのこの見神の体験は、文字通り《神の麗しきを見る》(詩27:4)すなわち「自分に対する神の恵みの業を実体験したもの」であった。注目すべきことに、ヨブにおいては「神を見た者は死ぬ」との従来の根本的な見解はくつがえされている。
 新約聖書において、パウロは述べている「今私たちは鏡をとおしておぼろげに見ているが、しかし《かの時には》顔と顔を合わせて〔神を〕見るであろう」(Iコリ13:12)。パウロは「神の顔を見る、神に出会う」のは「かの時」すなわち将来の終末の時点の出来事だとみている。
 これに対してバルトは、個人の存在の終焉「死の時点で」神との出会いが実現するとみなしている。
 「私たちはたとえ地獄においても、神のみ手の中にあるのであり、地獄の苦しみの中でも神のもとに守られるであろう。私たちは死の中でただひとりになるのではなく、むしろ死の主でありたもう神と共にあるであろう。死の中で、死の主として《私たちを待ちうけておられる神》は『恵み深い』神でありたもう」(741)。
 ここにあるように、私たちの死の中で、神が私たちを待ちうけておられるとしたら、そのことは、私たちの迎える死における大いなる慰めとなる。

                                     完了