建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死(二)

2000講壇3(2000/7/30~2000/8/20)

キリスト者の死(二)

キリスト者の過去における死
 パウロは、キリスト者が生前すでに自分の死「礼典的な死」を体験しているという。
 「キリスト・イエスへと洗礼された私たちはみなキリストの死へと洗礼されたのだ。実に死への洗礼によって私たちは彼と共に葬られたのだ。それは、父の栄光によってキリストが死人から復活させられたように、私たちも新しい生命の現実に歩むためである。もし私たちがキリストの死と同じ形に彼と結びつけられるならば、キリストの復活とも同じ形にそうされるであろう。(私たちが知っていることだが)私たちの古き人間は(キリストと共に)十字架につけられ、それによって罪の(に属す)体の彼が滅ぼされた。私たちがもはや罪に仕えることがないためである」(ロマ六:三~六、ヴィルケンス訳、「同じ形・ホモイオーマ」は二つのもの同質性ではなく、異質のものの類似性を意味する)。すでに過去において「自分の礼典的な死」を経験したキリスト者は、では自分たちの生死観が変わるのであろうか。先のピリピ一章のパウロの言葉においては、イザヤ三八章の死観、死を神との関わりを断ち切られたものとみなす見解とまったく異質な立場「死は益である」が表明されている。眼目となるなるのは、パウロはどのようにしてこの旧約聖書とは異質の、新しい死観をもちえたのか、である。

「呪われた死」からの解放
 パウロは人間の死を、老衰や病気、不慮の事故によるものとはみていない。もっと大きな定めとしてみている。「罪の報酬は死である」(ロマ六:二三、民数二七:三)。人間はさまざまな罪を犯し続けて、その報いとして死に至る、「私たちが(かつて)肉にあった時には、律法によって呼びさまされた罪の激情が私たちの肢体に働いて、私たちは死という結実を実らせたのだ」(同七:五)。この関連でユンゲルが「死」を神喪失を含めてすべての「関係の喪失」と把握したのは卓見である。「死は罪の総計であり、神との関係の破壊に対応した関係喪失へと人を追いやる」(「死」)。
 パウロはこの関係喪失からの解放、呪われた死からの解放を述べている。
 「私は内なる人間に関しては、喜んで神の律法に同意している。しかし私の肢体には別の律法が見える、この律法は私の理性の律法と闘っていて、私の肢体にある罪の律法の中に私をとりこにしている。私は何とみじめな人間なのだろうか。誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか。私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」(ロマ七:二二~二五)。
 パウロのよく知られた嘆き「誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか」に対してパウロ自身が回答を出している。それが次の二五節「主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」である。
 ここを、よく知られた内村鑑三の「ロマ書講解」は「死の体から救ってくれる」存在として「それはほかでもない主イエス・キリストによってである。神は感謝すべきかな」と二五節を読み変える。この読み変えは《無理である》。しかし意味内容的には内村の解釈は的中しているといえる。七章のパウロを内村はキリスト者の「現在の姿を表現したもの」とみなし、このパウロの姿を「嘆きつつ凱歌をあげて走る人」と把握している。
 律法の下で救いようもなく失われた者の「死の体から救う」ことができるのはまさしく、神ご自身である。神こそがキリストの贖いの死と復活によってこのことなしてくださった(ヴィルケンス、注解)。これが真に認識されるとろろでは神への感謝、神讚美が起こらざるをえない。「神の麗しきを見る」(詩二七:四)時である。これがパウロの回答である。