建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(五)エレミヤー2

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(五)エレミヤー2

エレミヤの手紙
(前回の「エレミヤの絶望」は省略することにしました)。
 バビロニアの王ネブガドネザルは、前五九七年、反乱を起こした南王国ユダの王エホヤキムへの懲罰のためにユダに侵攻してきた。そしてエホヤキン王(エホヤキムの死後王になった)および多数の王族、高官ら、技術者職人らの集団を捕虜としてバビロニアに連行した。ついで王となったゼデキア(在位前五九七~五八六)は、バビロンに使者を遣わした。エレミヤは彼らに手紙を託して捕囚の人々に届けることにした(エレミヤ書二九章)。
 エレミヤはこの手紙の中で捕囚の人々の混乱の状況をふまえている。エレミヤは捕囚の民に対して「ヤハウエが命じない偽りの言葉をヤハウエの名によって預言した」二人の預言者アハブとゼデキヤが、ネブガドネザル王によって民の前で処刑されたことを知つていた(二一、二九節)。「偽りの預言」の内容は明らかではないが、性急にバビロニアの即時崩壊とすみやかな故国への帰還という熱狂主義的な夢想を告知するような、政治的な反逆罪に問われる行動であったと推測できる。偽りの預言者らは、故国ユダにおいて最後の王ゼデキヤが「バベルの王に背いて、使者をエジプトに送り、馬と多くの兵とを乞うた」(エゼキエル一七:一五)事実をあるいは知つていたのであろう(周知のようにこの結果が前五八六年のエルサレム陥落であった)。捕囚の民の他方には、失意の中で過去と故郷のみに目を向ける望郷派「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオン(エルサレム)を思い出して涙を流した」(詩一三七:一)もいたであろう。
 この手紙でエレミヤはこう述べている、
 「万軍のヤハウエ、イスラエルの神はこう言われる、
  家を建ててそこに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
  妻をめとって息子、娘をうみ、またその息子に嫁をとり娘をとつがせて、
  息子、娘を生むようにせよ。
  その地であなたがたの数を増やし、減らさないためである。
  私があなたがたを捕らえ移させた町の平安を求め、
  その町のために祈れ。
  その町が平安であれば、あなたがたも平安であるからだ」(二九:五~七)。
 第一に、エレミヤは捕囚の期間が長期にわたる、とみている。それは一体何年くらいなのか。彼は慎重かつ斬進的に、捕囚の期間を引き延ばしていく。オリエントでは「家はすぐにも建つ」という。「畑をつくる」のは「もっと長い時間」を要する。小麦は一年単位で十分であるが、オリーブやぶどうの裁培となると、一〇年単位となるであろう。また息子、娘が結婚して孫らを生み、その孫らを結婚させるとなると、五、六〇年の年月が必要となる。エレミヤは捕囚の期間を五、六〇年と見ている。したがって捕囚の生活を「かりそめのもの」とみなす見解は誤りであって「早期に帰還が実現する」との主張は「偽りの言葉」となるとみなす。
 第二に、「神がイスラエルの民を捕らえて移させた」との見解(二九:四、七、一四)。エレミヤは捕囚を神ヤハウエによるものと考えたのだ。したがって捕囚の生活は「根こぎ状態」でも「かりそめのもの」でなく、神によって計画された期間、神のみ手にある時である。エレミヤはかつてバビロニア軍がエルサレムに追った時にも、「私・神はこれらのすべての国々を《私の僕》であるバベル(バビロミヤ)の王、ネブガドネザルの手に与える。…あなたがたは偽りを預言する預言者に聞かず、バベルの王に仕えて生きよ」と語った(二七:六、一七)。
 捕囚の生活をかりそめのものとみなすのをやめて、捕囚の地においても神が共にいてくださると考える時にのみ、地道な人生、日々の仕事に励み、家を持ち、結婚して子をもつ生活を築く気持になる。
 第三に、「その町の平安を求め、その町のためにヤハウ工に祈れ」(七節)について。エレミヤはこの言葉でバビロンに対して捕囚の人々が敵対的な態度を変えることを迫っている。バビロンは征服者でありつつ、今や捕囚の人々を自分のふところにかかえこんだ運命共同体である。バビロンのために祈れは、バビロンとの新しい連帯を意味している。しかしこの祈りは、けして生き残りのための知恵でも、敵側との妥協、相手への柔軟な戦術などではない。むしろ自分たちのために祈ることである。捕囚の民は神の前になおも《未来》をもっているからだ(ラート「説教ー瞑想」)。人は自分の未来をもつ時、過去への郷愁に逃げ込んで現在をあきらめることをしない。また未来の喪失ゆえの、現在の時を空無化して味気ないものとすることもない。むしろ未来をもつ者は、現在に対して真劍になり現在を充実したものとする。現在に対して硬直せずゆるめられた関わりをもつ。このゆるみが「落ち着いた暮らしと自分の仕事に身を入れる」(パウロ、第一コリント四:一一)。エレミヤによれば、未来のある捕囚の生活は「流れのほとりに植えた木」のように(工レミヤ一七:八)、大地に根をはる深みと周囲の人々と連帯する拡がりと自分の家族の形成という歴史を獲得するに至る。
 このような勧告の後にエレミヤは決定的な事柄を告げる。
 「ヤハウエは言われる、
  私があなたがたに対していだいている計画を自分でよく知つている。
  それは平安の計画であって、災いではない
  あなたがたに《未来と希望》を与えようとするものである」(二九:一一)。
 ここの「未来・アハリート」にはいろいろな意味がある。第一に、ある時ある事柄の「終わり」。ルター訳はここを「私はあなたがたの待望している《終わり》を与える」と訳す。第二に、アハリートは「子孫」を意味する。「あなたがたの《子孫》には希望がある」(エレミヤ三一:一七)。第三に、「希望、未来」を意味する。「あなたの《未来》は確かなものとなり、あなたの《希望・ティクヴァー》は欺かれない」(箴言二三:一八)。しかし考えてみると、この手紙の《構成》は少し奇妙である。通常の場合、まず前半で補囚の民に「未来と希望」を提示して(一一節)、後半で、落ち着いた生活をせよと勧告するであろう(五~七節)。しかしここでは順序が逆になっている。エレミヤはなぜこのような構成、まず勧告、それから希望の提示の順にしたのであろうか。この構成は決して偶然ではなく、エレミヤが意図したものである。エレミヤは捕囚の民がどのようにすれば希望をいだくことができるかの状況を設定したのだ。エレミヤは《人が囚われの状態にあると希望をもつことができない》と考えている。これはマルセルの見解「人は囚われの状態にないと希望をもつことができない」とは全く逆の見解である。エレミヤは捕囚の民の状況をよく把握していた。「信仰なき落胆と信仰なき熱狂」こそが彼らの状況である(ラート)。過去とシオンにのみ目を向ける望郷派と捕囚の地からの即時の脱出を夢想する熱狂主義派の考えを双方とも打破することなしには、彼らに希望の提示はできないとエレミヤは考えたのだ。落胆と脱出本能とを振り落として、捕囚の地に根を張り、落ち着いた暮らしを可能にするのは、この捕囚の地、捕囚の時においても、彼らが神に出会うことができるとの神の約束を確信することによってである。
「ヤハウエは言われる、もしあなたがたが一心に私を尋ね求めるならば、私はあなたがたに会う」(二九:一四)。ここで初めて神の指し示される将来を待ち望む姿勢が生まれてくる。先の一一節における「あなたがたに未来と《希望・ティクヴァー》を与える」の希望は、希望の対象ではなく、希望をもつ姿勢、待ち望みの行為を意味している。
 エレミヤは、バビロニアによるエルサレム陥落ののち、本国に残された人々と捕囚にあった人々(王族、高官ら、鍛冶屋、工匠ら技術者集団など、これには祭司集団もいて預言者エゼキエルもいた)について二つの「いちじく」の啓示をうけた(二四章)。本国に残された人々は「悪いいちじく」で、捕囚の人々こそ「よいいちじく」であった。
 「ヤハウエは私に言われた、この善いいちじくのように、私がこの地からカルデアバビロニア)に行かせたユダ(南王国)の捕囚の民を、私は恵みをもって顧みる。私は彼らに恵みをもって目を注ぎ、彼らを再びこの地に連れ帰る」(二四:五~六)。
 さらにエレミアは捕囚の民の未来、エルサレムの未来の姿についても語っている。
 侵攻してきたバビロニア軍によってエルサレムが包囲された時(前五八七年)、エレミアはゼデキヤ王らに降伏するように説いたので、王の家に監禁された(三二:二)、そこへ従兄が故郷のアナトテから面会にやってきて、アナトテにある自分の畑を買ってほしいと言った。そこでエレミアはその畑を買い、売買証書を弟子のバラクに渡してそれを長く保存するように命じた。今まさにエルサレムもその近郊にある畑もバビロニア軍の手中に帰そうという危機的状況もとでなされたこの商取引は、捕囚の民の未来を示す「象徴的行為」である。
 「ヤハウエはこう言われる、この地はカルデヤ(バビロニア)人の手に渡される、とあなたがたが語っているこの地で、再び畑の売買がなされるであろう。人々は町々で銀をはかって畑を買い、証書に署名し、封印し、証人を立てるであろう。私が彼らの捕囚の運命を転換するからである」(三二:四三以下)。
 国家滅亡後の、イスラエルの未来の希望についてこう語った、
 「ヤハウエは言われた、住む人も獣もいないまでに荒廃したユダの町々とエルサレムの町に、再び喜びの声、歓呼の叫び、花嫁や花婿の声が聞かれるであろう。『万軍のヤハウエを讃めよ、ヤハウエは恵み深く、その憐れみは永遠に絶えることがないと』と言って、ヤハウエの家に讚美をささげる者の声が聞かれるであろう」(三三:一〇以下)。
 預言者のうちでエレミヤだけが、神を「ミクヴェー」、信頼の対象とみなしている(ツインメリ)。訳語としては「希望」。
 「イスラエルの希望(ミクヴェー)であるヤハウエよ、悩みの時の救い主よ」(一四:八、一七:一三)、「彼らは先祖以来の希望であるヤハウエを捨てた」(五〇:七)。