第一章 高木仙右衛門の抵抗 信教の自由を求める闘いー2
2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」
第一章 高木仙右衛門の抵抗 信教の自由を求める闘いー2
明治維新政府の弾圧
この三ヵ月後、明治政府が成立、しかし明治政府も「キリシタン禁制の高札」をかかげ、神道国教化を目指した、一八六八・慶応四年三月。翌四月、浦上の戸主一八〇名が九州鎮撫総督、沢宣嘉に召喚された。むろん在日の欧米公使団から強い抗議が出た。九州鎮撫府は事態に対処しきれず、問題は新政府閣僚の手にゆだねられた。処分は中心人物一一四人の流刑(他国預け処分)と決った。流刑先は津和野(二八名)萩(六六名)福山(二〇名)であった。仙右衛門、守山甚三郎は津和野。
一八七〇・明治三年一月、浦上の戸主および家族全員の流罪・移送が決った、三三九四名、一村総流罪である。
流刑先の津和野では仙右衛門らに厳しい拷問が待ちかまえていた。一八六九・明治二年一二月、仙右衛門と守山甚三郎は氷責めにあった。
「(津和野藩当局は)下役にいいつけて私を裸になして、池に入れました。時に寒さは針で突き刺すがごとくでありましたので、私は大声でオラショ[祈り]をいいましたら、役人が怒って四方から水をくりかけました。私が死にそうなったので、役人は早くあげよ、というて池からあげられ、もとの責め場[拷問室]に据えられて『これでもかんべん[改宗]せぬか』と申されたので『とてもかんべんなりません』と申しました。それから吟味[訊問]をうけまして、焚火で暖められたので、身体じゅうがうずき、次に悪寒、戦慄がきて歯も抜けるかと思いました」(「覚え書津和野にて」)。仙右衛門は責め苦に耐えぬいたのだ。
他方、役人の訊問に対して仙右衛門はこう答えた。
「三百年この方、キリシタンの教えの悪いということは聞きません。ただ天地の御主を信仰いたしまする。この万物の御親天主[デウス]にご奉公する道でございますがゆえに、先祖よりもいい伝えられてこれを代々信仰いたしておりまする。この上いま新しき教えをききまして、なお心は丈夫になりておりますゆえに、これをやむるようにあればここまでまいりません…けれども終わりなき天の幸福を求むるためにいかなる責苦に逢うても改心することかないません。この上、いかようなことがありましても改心するということはできません。…天主の御計らいで天子[天皇]さまより食物を与えられます。それができなければ食べずにおりまする。また仏や神道はまことの教えではありません。仏や神道の教えによって助かるようにありますれば、キリシタンを守り、御禁制を受けて、わが里を捨て、妻子を捨てて、ここにこうしてまいりません。ゆえに私どもは改心するということはできません。ただ今のごとく食物を食べさせずに、生きもならず、死すこともできぬようにせずとも、キリシタンを守りて日本の国法を破ると思いなさるならば、その罰として殺すなりとも、これにあたる罰を与えてよろしゆうござろうと思います。今のごとくにして、段々に死にいたらせしむることは隠し殺しでござる」。
明治政府によるキリシタン弾圧に対して、仏米独の公使から「申し入れ」がなされた。アメリカ公使は、宗教信仰のことで政府が農民や町人を流罪にし労役を課す処罰をすることを外国人が聞けば、従来の和親の情もたちまち損われる、と警告した。ドイツ公使は、日本政府は四〇〇年前欧州で宗教のことでひどい処罰を加えた過ちを犯している。これを改めないと世界中から日本政府はいやしめられる、と述べた。政府の外務閣僚と英、米、仏、独の公使団との会談もなされた。英国公使アダムスの要請で英領事と政府の外務官が流刑先のキリシタンの待遇の実情調査を行なうことになった(一八七一・明治四年一月)。
おりしも岩倉使節団が欧米視察・条約改正交渉に出発した(同年一二月)。しかしキリシタン弾圧のゆえに欧米諸国からの厳しい応対が使節団を待ちかまえていた。アメリカ政府側は浦上のキリシタン弾圧を取り上げ「宗教の苛責をやめなければ、自由な交際[条約改正]はできない」と言明した。キリシタン禁制の政府には治外法権の撤廃はできないとの見解であった。在米中の外交官、森有礼は「日本宗教自由論」をもって使節団に信教の自由の承認を建白した(在米中の新島襄は求められて通訳として同行したが、日曜日は休日、礼拝出席をすることを不可欠の条件にして承認させた)。イギリス政府の見解も米国と同様で、キリシタン迫害を日本政府が中止しなければ、条約改正交渉は進展しないというものであった。周知のようにベルギーでは市民が岩倉大使の馬車に押し寄せて浦上キリシタンの釈放を叫んだ。岩倉の、欧州からの電報によって、政府はキリシタン禁令の高札を撤去した(一八七三・明治六年二月)、同時に流罪のキリシタンの帰郷を許した。禁制の廃止は、このように欧米各国政府からの強硬な批判への対応と条約改正を獲得するための方便でもあった。
とにかく同年五月仙右衛門らは浦上に帰りついた。しかし流刑にあった三三九四名のうち六六二名がその間に、拷問、病気、栄養失調などで殉教した(二〇%)。棄教した者の数は不明であるが一〇〇〇余名(三〇%)とみなされている。浦上に帰ったのは一九三〇名(五七%)、そのうち七七〇余名は家がなく、バラックを建てて住んだ。田畑も荒れて農具も生活必需品もなく食料も乏しかった。
一年後の七月、付近に赤痢が大発生して浦上にも広がった。岩永マキ(流刑経験者)らが献身的に救護活動し、ド・ロ神父を支えた。仙右衛門は自分の小屋をマキらに提供した。後にこの仙右衛門宅は「十字会」という修道会となり(明治一〇年)孤児院施設になった(建て代えられて同地所に現存)。明治一三年には浦上に天主堂仮会堂が建てられた。むろん仙右衛門もこのために奔走した。さらに一四年に彼は、津和野での苦しい迫害の体験を想起しその地で殉教した者らを追悼し、棄教した者らの罪の赦しを願うために、自宅のすぐ裏の丘(本原郷平)に十字架を建立した、今日の「十字架山」である。
一八九九・明治三二年四月仙右衛門は七五才で召天した。
一九九九年が仙右衛門の没後百周年であるが、この年四月私ども夫婦は長崎のキリシタン迫害の歴史探訪をした。その折り絶対に訪れたい場所としてあげたのが、大浦の天主堂、二六聖人の記念碑、資料館のほかに、この十字架山と仙右衛門の墓であった。十字架山の場所は、大浦天主堂のシスターに教えられて、すぐにわかった。本原町の小高い丘の上にあった。仙右衛門が建てた木製の十字架は原爆で焼け落ち、現在は二メートルくらいのコングリー製の十字架が建っていた。五〇坪程度の平らなその地の周囲には、民家が建てられて押し迫っていた。私どもが見学したりお祈りしたりしたが、カトリック信者らしい老婦人が険しい急な坂道を上ってやってきていた。
その後仙右衛門の墓を探して本原町あたりをうろうろしていたところ、たまたま通りかかった四人のシスター(修道会の尼さん)に尋ねると、こちらです、と親切にも仙右衛門の墓地まで案内してくださった。途中に孤児院があったが、そこがもとの仙右衛門宅であった。案内された墓は立派なもので、被爆後建て代えられたという。記念撮影したが、日本において信教の自由ゆえに生命を賭けて弾圧に抵抗した存在に出会った気持になり、私は感無量であった。
仙右衛門の果した役割は、
第一に、幕府と明治政府の弾圧に屈伏せず、自分の生命を賭けて厳しい訊問や拷問にもひるむことなく、自己の見解を表明したこと。これは従来の日本にはけして存在しなかった近代的人間像である。
第二に、この信仰的抵抗はキリシタン禁制を撤廃させる一つの基礎を与えた。
第三に、キリスト教信仰のありようを明らかにした。すなわちキリスト教を信じるとは、強制や弾圧にあっても決して棄教せず、権力が強要する他の宗教を拝まない、神社も、天皇も拝まないことを身をもって証言したこと。神社参拝の拒否、天皇崇拝の拒絶の先駆けであったこと。
第四に、仙右衛門の信仰的抵抗は、「心のうちばかりで信ずることかないません」との彼の言葉にあるように、内面の信仰のみでは成立できないもので、宗教の布教や活動・言論・結社など外部における自由と相即したものと把握したところから起因している。このポイントは、国家と宗教、信教の自由を考える時、大きな教訓、模範、励ましであり続ける。
「仙右衛門覚え書」は曾孫に当る高木慶子によって出版された、一九九三。
また二六聖人の記念碑の隣りにある資料館には、仙右衛門の肖像写真が展示されている。和服姿でうつ向きかげんの、穏和な顔つきの中年男性の姿で、あのような強靭な抵抗をし続けた人物とは思えない感じでとても印象的であった。