建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

十字架1  ルカ23:33~37

1999-42(1999/11/21)

十字架1  ルカ23:33~37 


「彼らはしゃれこうべゴルゴタ)と呼ばれる所に着くと、兵卒らはそこでイエスを十字架につけた。二人の犯罪者も一人はイエスの右に、一人を左に一緒に十字架につけた。
 34節[するとイエスは言われた『父よ、彼らを赦してください。
     彼らは何をしているか知らずにいるのです』]
 彼らはくじを引いてイエスの着物を自分たちで分けた。人々は立って、 見ていた。サンヘドリンの議員らも鼻で笑いつづけて言った『あの男は他者を救った。自分自身を救うようにさせろ。彼がほんとうに神のメシア、選ばれた者なのならば』。兵卒らもイエスをなぶり者にし、近寄って酢つばいぶどう酒を差し出して言った『もしおまえがほんとうにユダヤ人の王ならば、自分を救え』」。
 「ゴルゴタ」はアラム語の「されこうべ・ガルガルタ」に由来する。こう呼ばれたのはその岡の形がされこうべに似ていたからだという。木々のない丸味かかった小高い岡。この場所は現在の聖墓教会の内側に当るという。
 「十字架」。ローマ人らは十字架刑についてこう述べた、人間の残虐さが思いついた最も戦慄すべき処刑法(キケロ)、奴隷の処刑法(タキツス)、あらゆる死刑の中で最もみじめな死に方(ヨセフス)、プリンツラ一。前60年ころ奴隷スバルタカスの反乱では鎮圧されて十字架につけられた奴隷たちの列がアッピア街道に数キロ続いたという。ユダヤでは、後36年シリア総督ヴァルスは2千人のユダヤ人を十字架につけた。46年反乱指導者ガリラヤのユダの二人の息子が総督アレキサンダーによって十字架につけられた。66年以後のユダヤ戰争の時期には、あらゆる身分のユダヤ人5000人が総督フロールスによって十字架につけられた、という。
 ユダヤには十字架刑はなかった。ユダヤでは偶像礼拝者、瀆神罪の者は「石打ち刑」に処せられた後、その死体が木にかけられてさらされた、申命21:23。これは処刑された者が「神から呪われた人間」とみなすためであったという。サンヘドリンは死罪に当ると判決したイエスの十字架刑を強く要求したのは、ユダヤ人が死刑執行権がなかったからだけではない。メシアともあろう者が忌むべき「木に架けられて死ぬ」方法を彼らは求めたのだ。神に呪われた死、木にかけられる、は、ガラテヤ3:13、「あなたがたが木に架けて殺したイエス」行伝5:30、10:40、「キリストは木にかけられて私たちの罪をおわれた」第一ペテロ2:24などで出てくる。したがって十字架をローマの政治的文脈からがけ把握するのは十分ではない。ユダヤの宗教的な文脈、神に呪われた要素をもふまえなければならない。呪われた死に方、これも十字架のつまづきである。
 十字架につけられる者は、鞭打ちの後、衣服をはぎとられ裸にされて、地面の上でまず横木に手のひらが釘づけにされ、次に横木はその者の体ごと吊し上げられて、地中に立てられた柱に固定され、さらにこの柱に彼の両足が釘づけされた、十字架の高さは見上げる高さではなく、その者の背丈より少し高い高さであった。他方地上1メートルの高さのものも多くみられ、イエスの場合、兵卒が酢ぶどうの海綿をイエスの差し出すのに葦の棒をつかっているので(マルコ15:36)、高さ1メートルが考えられる。イエスは没薬入りの葡萄酒を拒んだとしるされている、マルコ15:23。これはユダヤ人の女性たちが処刑される者に苦痛を和らげるためにあたえたものという、箴言31:6。
 34節前半はルカの本文にはない。後の付加とされる。フイッツマイヤーにはない。塚本にはある。「彼ら」はユダヤ人をさしているのか。処刑執行のローマの兵卒らを指しているのか。後者だとする解釈はクロスターマンのもの。他方前者、すなわちユダヤ教当局者、35節、だとする解釈が多い、フィツマイヤー、コンツェルマン。だとすると「彼らは自分が何をしているか知らない」いわゆる 「無知という動機づけ」はどう解釈されるのか。ところでユダヤ人もその当局者も十分彼らなりにイエスを「知つていた」。大祭司カヤバはイエスに「メシア僭称者」として瀆神罪で死罪の判決を出したからだ。ユダヤ人はイエスの主張を知りながらも、 彼らはイエスのメシア性を信じなかったのだ。彼らは自分たちが神のメシアを十字架につけたという意識はなかった。十字架の「時点」ではイエスへの判決は究極的には「未決であった」。これが「既決」となるのはイエスの復活をとおしてである。しかもその判決は神によって破棄される。
 シュナイダーの行伝の注解は、ステパノの言葉「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」 行伝7:60が逆に、イエスのこの言葉に移行されたとみる。「ご自分を肉体的精神的に苦しめる人々のために、イエス祈りをささげられ、父なる神から彼らのへの赦しを得ておられる。