新約聖書における死の理解ー4
2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-
Ⅱ 新約聖書における死の理解ー4
イエス・キリストの十字架の死③
木にかけられた方
次に「十宇架のつまづき」(ガラテヤ5:11)を取り上げたい。パウロは述べている「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまづき(いまわしいもの)であり、異邦人には愚かである。しかし召された者には、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵である」(Iコリ1:23~24。ここの「つまづき」とは「いまわしいもの、汚れたもの、忌むべきもの」という強い意味である)。
イエスがユダヤ教の最高法院によって有罪判決を受けた理由は、大祭司の審問「あなたはメシアなのか」に対してイエスが半ば肯定した回答をなさったために、神をけがす瀆神罪に問われたからだ(拙著「キリスト者の希望」174以下)。十字架刑自体は当時ユダヤを支配していた、ローマ帝国が叛乱奴隷や叛乱を企てた者たちに課した極刑であった(前6年ころ、人口調査に抵抗したガリラヤのユダの叛乱など)。
他方、ユダヤ教においては「木に架けられた者はすべて神から呪われている」(申命記21:23)とされた。「キリストは私たちのために呪いとなられて、私たちを律法の呪いから贖ってくださった」。
ペテロの説教でもこう語られた「あなたがた〔ユダヤ人〕が木に架けて殺したイエスを私たちの先祖の神はよみがえらせたもうた」(行伝5:30)。「キリストは木に架けられて私たちの罪をご自分で負われた。その傷によってあなたがたは癒されたのだ」(Iペテロ2:24、イザヤ53:4)。 「イエスは《神から遠く離れて》すべての人のために死を味われた」(へブル5:7、ハルナックの読み方)。
贖いの供え物(贖罪の場所)
ロマ3:25「神は血による《贖罪の場所》としてキリストを公然とお立てになった」(ヴィルケンス訳、協会訳は「贖いの供え物」)。ここの原語ヒラステリオンはエルサレム神殿の至聖所に置かれた「祭儀用の黄金の板」のことで、旧約聖書では「贖罪所」と訳された(出エジプト25:17以下など)。民の罪の贖いのために、この板の上に羊などの血が注がれた。バウアーのレキシコンは「贖いの供え物」との訳語をつけているが、しかしここの眼目は、犠牲として捧げられる動物「贖いの供え物」ではなく、むしろ《贖いの場所》である(キリストの十宇架の死の出来事の《主体》は、キリストご自身ではなく、神である。だとすれば「贖いの供え物」との訳語を採用した場合、その供え物を捧げる者も受ける者も神だということになり、内容が意味不明となる)。ヴィルケンスの訳語はここを「贖罪の場所」としている。キリストが犠牲とされる動物になぞらえられているので《なく》、むしろ黄金の板(贖罪所)になぞらえられている。この贖罪所は神の臨在する贖罪の場所である。神は十字架にっけられたキリストを、すべての信仰者のための贖いの場所となされて、そこにご自分が臨在なさるのである(ヴィルケンス、註解)。
贖い金・身代金
マルコ10:45「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の《あがない金》としてその生命を与えるためである」(塚本訳、原語はルトロン。「人の子」は後期ユダヤ教のメシア称号で、ダニエル書、エチオピアエノク書に出てくる)。この用語・あがない金は、奴隷をお金を支払って自由にするそのお金のこと。キリストの十字架の死の意味を示すものとしてこの用語は用いられた。しかしこの身代金はいったい《誰に》に支払われるかが明らかでない。支払う相手として、アレキサンドリアの神学者オリゲネス(後240年ころ)、アウグスティヌス(後400年ころ、カルタゴの神学者)らは、サタンへ支払うものと解釈した。「キリストはご自分の血によってサタンの力から、私たちを贖いたもうた」と。
父なる神によるみ子の放棄としてのイエスの死
ロマ8:32「ご自分のみ子を惜しまないで、私たちすべての者のために十字架の死に《引き渡したもうた》方」。ここではイエスの死を父が子を《十字架に引き渡し・見捨てた》行為として解釈されている(「引き渡す」は受難用語の典型)、言い換えると、「私たちに対する」父の愛のしるしとして解釈されている。「キリストは、父によって全く意図的に、死の運命へとゆだねられたのだ。神は破壊的な死の力へとキリストを服させられたのだ」(モルトマン「十字架につけられた神」)。さらにパウロは父なる神の愛がいかなるものからも、引き離すことのできないものだと述べている、「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにあって(働く)神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ロマ8:38以下)。