旧約聖書における絶望と希望(九) ヨブ記ー1
2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)
旧約聖書における絶望と希望(九)
ヨブ記における希望ー1
ヨブ記は知恵文学に属すが、成立は前四〇〇年頃。義人の味わう不当な苦しみを主題としている。ヨブ記では、人間の希望の可能性について徹底して《批判的な論議》が展開されている。構成上は、一~二章と終りの四二章後半が散文で、その他は詩文で書かれている。この長い詩文の部分で、ヨブと三人の友人たちの論議が闘わされる。また三二~三七章は四人目の友人エリフの演説で、後の時期に付加されたものとみなされている。ヨブと友人たちとの討論が始まるが、そのいきさつはこうである。
ヨブは、神を恐れる敬虔な人物で、財産にも恵まれ、一〇人も子をもち、人々からも尊敬されていた。時に天上で神とサタンとの話合いがなされた。サタンは神の使いの一人で、人間の隠された咎を明るみにさらす働きをもち(サタンは「告発者」の意味)、ヨブについて次のように神に訴えた、「ヨブは恵まれた人生を送っているから、神を恐れ、神を信じているにすぎない。ヨブにあらゆる不幸に遭遇させてヨブの敬虔が本物はどうか試してみましょう」。かくしてヨブにあらゆる不幸が訪れた。財産はなくなり、一〇人の子供も災難で死に、自らは病気となり、妻にも見捨てられ、灰の上にすわって、破片でできものをかきむしった。
このような時、ヨブの友人たち三人が訪れたが、ヨブの苦しみの様があまりにひどいのにショックを受けて七日間黙ってヨブのそばにいた。それからヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪い、苦境の中で叫び出した。かくしてヨブと友人たちとの討論が始まった。
友人たちの発言。はじめに友人エリパズ、三人のうち最も落ち着いていて、思慮深い人物がヨブを慰めようとする。かつてヨブは苦境にある人々をいかに力強く慰め、励ましたかをエリパズはヨブに思い出させようとする。
「ところが今、事があなたに臨むとあなたはもろくなり
事があなたに触れるとあなたはおじ惑う
あなたの神への恐れはあなたの確信ではないか
あなたの道の全きことはあなたの希望ではないか
考えてもみよ誰が罪なくして滅びたか
どこに正しい者で亡ぼされた者がいるか
私の見たところでは悪を耕し害悪を蒔く者はそれを刈り取る
彼らは神の息によって滅びその怒りによって消えうせる」(四:五一九、ホルスト訳)
しかし、ヨブはエリパズの慰めを拒否した。そこで二人目の友人ビルダテが登場してきた。彼は前提となる確信から論じた。
「神が公義を曲げるであろうか。全能者が正義を曲げるであろうか。
あなたの子たちが彼に罪を犯したので彼は彼らをその咎の手に渡されたのだ。
もしあなたが神に求め全能者に恵みを願うならば
あなたがもし清く正しくあるなら彼はあなたのために立ち上がって、
あなたの住みかを回復してくださる」(八:三~六)
希望は喩によって示されている。
「パピルスは沼地でなくて大きくなれるだろうか
葦は水のない所に成長するだろうか。
まだ芽が出たばかりで 切られる前に
すべての草に先立って枯れてしまうだろう
すべて神を忘れる者はこうだ。
不信仰者の希望は滅び去る」(八:一一~一三)
三人目の友人ゾパルは、神の秩序に生きる敬虔の知恵に基づく見解である。
「あなたの手に不義があるなら遠ざけよ
あなたの天幕の中に悪を住まわせるな
あなたは希望をもつゆえに信頼し 守られて安らかに伏すことができる。
しかし悪人の目はかすみ
逃れる場所も失われ
その望みは吐き出す息となるであろう」(一一:一四~二〇)
ゾパルの主張は明解である。《希望は人間の手に入れることができるものである》。神の前に正しくあれ、そうすれば人間は希望を持つすべての根拠を獲得できる。
ヨブは現在の自分の存在を木に譬えている
「木には希望がある 切られてもまた新しくなりその若枝は絶えることがない。
その根が地中で老いその幹が土の中で死んでも、水の潤いによって芽を出し
若木のように枝をのばす
しかし人は死ねば消え去り
息が絶えればいなくなる」(一四:七~一〇)
ヨブは人間の生きた現実としての自分の体験をここで語っている。ヨブの希望についての発言も神の働きかけるものとしてみている。自分のすべての希望が破産した事実の中に神の存在を感じている。
「水は石を打ち砕き、大水は地の塵を押し流す。
《そのようにあなたは人の望みを絶たれる》。
あなたは永遠に彼に勝って彼を過ぎ去らせる」(一四:一九)
そしてヨブにとっては《希望を人から奪うのは他でもない神である》。
「彼は四方から私を打ち減ぼして私を去らせ
私の希望を木のように抜かれる」(一九:一〇)
ヨプは希望が神からのみ来るという友人たちの見解に全く同意している。しかし、問題は哀歌三章における希望について言及したように、どのようにして希望をいだくことが可能になるかである。希望をいだくことは当人の主体性に依拠するのか。友人たちが、知恵文学における「秩序」という考え(神は「秩序」をもって世界をこの世を保持される。義人には恵みを、悪人には審判を与えられる)にたって、《人間が自分の行為によって、それによりかかって神による希望の分配に与るれると主張する場合には、ヨブは激しく反論せずにはおれない》。友人たちの希望についての見解、神は敬虔な者に希望を与えられる、という考えが、ヨブには妥当しないからだ。ヨブは自分も敬虔であると思っているが、神はこの敬虔な者の手から希望を奪いとられる、またヨブは自分の敬虔が自分に希望を取りもどさせることはできない、と確信している。友人たちの希望についての見解と、ヨブの現在の希望についての体験と確信とはまっこうから対立しいている。人間の神への敬虔は、神からの希望を得る根拠となるのかならないのか。
ヨブのここでの弁論は友人たちのものよりも全く冒涜、不信仰のように映る。したがってヨブ記の終りで、神ご自身の口から、ヨブは友人たちより「正しいこと」を語ったとの言葉(四二:七)が述べられるのは驚くほかない。これは、ヨブが友人たちの弁論よりも、生ける神について遥かに深いことを知つていたことを意味する。ヨブは人間の行為によって神から希望を得られるような「秩序」といった体系、そのようなものにいささかも拘束されない神の主権と自由について論争したのだ。
ヨブの場合、しかしながら神の自由な主権に対して最大限に栄誉を帰すという事態は、一方では現在自分に与えられた賜物を享受するという方向(伝道の書)に向うことをしない。続