建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ハイデルベルク信仰問答 キリストの埋葬

週報なしー6

キリストの埋葬

テキスト:ヨハネ5:24 

 ハイデルベルク信仰問答の41~44問は、使徒信条の「主は死にて葬られ、陰府に下り」の部分についての問答。
 41問「なぜ、キリストは葬られたもたのですか。
 答、それは、キリストは真に死にたもうたということを証しするためです」。

 

 福音書は、キリストの埋葬を微細にしるしている、例えば、その場所がアリマタヤの墓であって、マグダラのマリアらが、その場所をしっかり確認した、と述べている(マタイ27:59、60)。この記事もキリストの「仮死説」を反論するものである。仮死説というのは、キリストの復活に対して、キリスト教の外から加えられた批判で、キリストはまだ死んでいなかった、仮死の状態にあったから、生き返る、蘇生することができた、との説。41問は、したがって単なる理葬の事実の記述としてではなく、キリストの死の「確認」、ほんとうに死にたもうたという問題意識が働いている、と考えるべきである。
 42問「キリストが私たちのために死に給うたのであれば、どうして、私たちも死ななければならないのでしょうか。
 答、私たちの死は、自分の罪の償い(弁済)ではありません。むしろそれは罪の死減(消減)と、永遠の生命への入り口にすぎないのです」
 ここも重要である。かつまた少し難しい。ここではおそらく、「私たちの罪の償い・弁済」と「罪の消滅」との区別が必要であろう。「罪の償い・弁済」については、旧約聖書の犠牲の供え物という考えがある。レビ16章などにある大贖罪日(10月ころ、ユダヤ教の大祭日、民の罪の浄めの儀式が行なわれた)には、大祭司が民の罪の赦しのために神殿で動物の犠牲をささげ、その動物の流す血が人間の罪を赦す力があると考えられた。ユダヤ教でもそうであった。しかしこのような動物の犠牲の供え物という儀式においては「罪の意識が消減しない」という深刻な信仰体験がユダヤ教の中で起った(へブル10:2)、この「いけにえの儀式において罪の記憶(思い出)がよみがえってくる」(へブル10:3)との体験、またパウロにおける「善をなそうとする意志は自分の中にあるが、それを実行する力がない。私の欲している善は行なわないで、欲していない悪を行なっている」(ロマ7:18~19)。このような道、つまり動物犠牲を捧げること、律法の遵守によっては、罪の意識が消減しないで、逆に罪の意識が強化された。
 しかし、キリスト教はこのようなユダヤ教における「罪の赦し」から重大な眼目を受け継いだ-一それは、人間のなす犠牲の儀式や信仰的な行為・実践によっては「罪の赦し・償い」はできないという点。また「血を流すことなしには、罪の赦しはありえない」(へブル9:22、レビ17:11)という思想の二点である。マタイ26:28などの最後の晩餐の記事には「これ(葡萄酒の杯)は、罪の赦しをえさせるために、多くの人のために流す私の契約の血である」とあってキリストが十字架で流したもうた血のみが、人間の罪を赦す・弁済することができる、と語っている。
 この41問の「私たちの死は罪の償い・弁済ではない」は、このようなキリストの流された血のみが、罪を赦す力がある、人間には罪の弁済の力がないこと、を暗示したもであろう。そして41問の答は「私たちの死は〈罪の死減・消滅〉である」と言っている。このあたりは、この問答書のユニークな点である。ロマ6:7「死んだ者は罪から解放されている」、11節「あながた自身、も(洗礼において)罪に対して死に(キリスト・イエスのあって神に生きている)」は洗礼との関連で、洗礼においてキリスト者はキリストと共に十字架にっけられて(6節)、キリストの死の姿と等しくなり(5節)、(儀式的に)死んだ。それはキリスト者が「罪に支配されることがないためである」(6節)。「死んだ者は罪から解放されている」から(6節)。死は罪の死減・消減である。人間には罪の弁済・償いはできないが、死によって、罪からの解放、罪の死減はある、というのがパウロの見解である。
 ところで罪と死との関連は、この他「罪の報酬・報いは死である」(6:23)もある。ここでの罪は、人間が他のものとの関わりを破壊することである。禁断の木の実をアダムらは、エデンの園からの追放されたが、アダムらは神との関わりが破壊され(追放)、人と人との関わりが破壤された(恥と欲望の介入)、人と自然・大地の関わりも破壊された(額に汗して食物をとらねばならない)。その究極の形、さまざまな関わりの破壊、が死である。
 他方、ここでは、死が少し明るいものとして述べられている。死は「罪の死滅、新しい生命への入り口である」と。ここの引証聖句はヨハネ5:24「私の言葉を聞き、私を遣わされた方・神を信じる者は、永違の生命を持ち、死から生命へと移転・移住されている」。ここの「移される・メタバイノー」は住んでいる所を変えること、新しい領域への移住を意味している。キリストを信じる者が死の支配領域から新しい神の生命が支配する領域へと移住させてしていただいた(受け身の完了形)。そして、このような内容をどう考えるか、で重要となるのが先のロマ6:11の「認めなさい・ロギソマイ」、信仰者の「信仰認識、自已認識」を言っている。死についての見解にしても客観的な知識ではなく、信仰者のもつべき認識、そこには、選択や決断が求められるもの、である。「死んでしまえば終り」という、死についての「一つの見解」に対して、いやそうではない、死によってすべてが終るのではない、「死は永遠の生命への入り口である」との「信仰認識」を選びとり、死をそのようなものとして受けとめる、それを批判する他の見解とは闘う。これが41問の答が私たちに教えている事柄である。
 44問「キリストは陰府に下り」とも関連するが、ルターはこう語った
 「私たちは生のさ中で死に取り巻かれている。しかし、それを逆にせよ。死のさ中で私たちは生に取り巻かれている。キリスト者はそのように語りそのように信じる」。
 この「死のさ中で私たちは生に取り巻かれている」は、私たちの死を復活が、復活の生・生命が取り巻いているという意味である。このルターの見解は「死は永遠の生命への入り口である」と同じ立場にある。
 「死から生命への移転」(ヨハネ5:24)は、私たちに訪れる死がキリストの死と復活によって変化したことを言っている。死が「罪の報酬」ではなく、つまり死は人間のいまわしい終りでなく、もっと違ったもの、死の相対化、死への不安の減少と消減、死が呪いではなく、神が定めた入間存在の限界づけ、のようなもの、そこでは安らかで穩やかな死が実現する。旧約聖書は祝福された死を「彼は年老いて日満ちて死んだ」(創世記25:7)と表現した。教会史は別様に表現した一一「み顔を仰ぎ、み手によらば、いまわの息も安けくあらん」(パウル・ゲルハルト、17世紀ドイツ。讃美歌136)。ルターはステパノの死の折りの祈りを引き合いに出し(行伝7:59。これは神の恩籠に委ね切った死であって、これ以上に善い死はない、と語った。
このような信仰者の「安らかで静かな死」が充分ありうると思う。それゆえ「死は永遠の生命への入り口である」との回答は、私たちにとって決定的な教えである。