建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ハイデルベルク信仰問答 キリストの苦しみ

週報なしー5

キリストの苦しみ

テキスト:ガラテヤ3:13 

 ハイデルベルク信仰問答の35、36問は、「使徒信条」の「主は聖霊によりて宿り」の箇所すなわちキリストの聖霊による受胎の部分。別の機会に。
 37~44問が「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、死にて葬られ、陰府にくだり」の部分の問答となっている。「ここで展開されているのは 聖金曜日の福音であり、十宇架の神学である」(カール・バルトの講解)。
 37問「使徒信条の〈主は苦しみを受け〉という句によって、あなたは何を理解しますか。
答、主がその地上の生活のすべての時に、ことにその終りにおいて、全人類の罪に対する神の怒りを身と魂に担い給うたということを、理解します。 そしてそれは主が唯一の贖いの供え物としてのその苦しみによって、私たちの身と共に私たちの魂を、永遠の減びから救い、私たちのために、神の恵みと義と永遠の生命を獲得し給うためであったのです」
 ここは引証聖句は、イザヤ53:4~5、マタイ20:28があげられている。

 

 ここは、キリストの苦しみが「何のためのものか」が語られている。まず第一に「全人類の罪に対する神の怒り」のポイントがある。このポイントは、人間の救いが直接的に起るのではなく神の側の行為、すなわち〈救いが一つの裁きをとおして起る〉ことである。この裁きは、神の正しさ・義を確立するためのものなのだが、その神の正しさというのは、神のみが正しく、人間は不義・罪であるということを確立するものではない。むしろそれは、不義・罪ある人間を正しい者・義とする、そのような仕方で確立される神の正しさ・義である。ロマ3:25~26「神はこのキリストを立てて彼の血による贖いの供え物とされた。 それは神の義を示すためであった。・・・こうして神自らが義となり、イエスを信じる者を義とされるのである」。神の義が罪人を義とする点を発見したのは、ルターであった。神の裁きは、人間の側が敗北し 神の側が一方的に勝利する、というものではない。神の裁きは神が人間の味方となりたもう仕方で、神の正しさ義を破壊した者、人間を減ぼすのではなく、むしろ救うという仕方で起る。神は罪人の死を喜ばれない(エゼキエル33:11)。神が徹頭徹尾厳しくありたもうて、かつ徹頭徹尾憐れみ深くありたもうことこそ、神の深みであり神の義の深みである(バルト)。
 第二のポイントとして、キリストの代理苦。先の神の裁きは、人間の罪を明らかにするはずである。人間の罪はここでは「全人類の罪」と包括的に表現されている。その罪は、神の戒めを破ることも含まれるが、特に注意すべき事柄は、徹頭徹尾、憐れみ深い、神のその憐れみを罪人が破壊した点である。神の側からのこの罪に対する裁きは、この人間、罪人の罪、憐れみの破壊行為に対しても、憐れみの対応をなされる。それが「主が(その生涯の終りにおいて)神の怒りを身と魂に担い給う」「彼の苦しみをとおして」という箇所である。私たち人間の事柄、問題、現実を神はご自身の事柄となさるのである。主・キリストが神の怒りを全存在で担われる行為「彼の身と魂に担い給うた」は、伝統的には「代理苦」、他の者に成り代わって苦しむこと、と呼ばれてきた。この代理苦という思想はイザヤ53章に典型的に示されている。より厳密に言えば、原始教会・新約聖書がイエスの苦難と死をそのように解釈した、その解釈を後の教会も真実のものと受け取ったということである。
 「まことに彼(苦難の僕)はわれわれの病(悩み)を負い、われわれの悲しみを担った。・・・彼はわれわれのとが(咎)のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた。・・・彼を砕くことは主(神)のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分をとがの供え物となす時、主のみ心は彼の手によって栄える」(4、5、10、11節)
 この代理苦のポイントは、38問、40問でも展開されている
 38問「なぜ、キリストは、裁判官ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け給うたのですか。答、それは、キリストが罪なくして、この世の裁判官のもとにおいて罰せられ、そのことによって私たちに対して発せられるべき神の厳しい判決から私たちを免れしめるためであったのです」
 40問「なぜ、キリストは、死を忍び給わなければならなかったのですか。
答、それは、神の御子の死によるのと違った仕方では、神の義と真理のゆえに、私たちの罪に対する弁済をすることができないからです」
 37問の第三のポイント、38問及び40問のポイントは、代理苦の他に贖いの思想が出てくる「主は唯一の贖いの供え物として」・37問の箇所。贖いとは、代金を払って、奴隷や罪人を隷属状態(獄)から解放することである。申命7:8、イザヤ53:12「彼は多くの罪を負い不義なる者のために執成をした」、マタイ20:28「人の子が来たのも、多くの人の贖いとして自分の生命を与えるためである」、第一コリント6:20「あなたがたは代価をもって買い取られたのだ」。「贖いの供え物」(38問)「神の御子の死」(40問)は、キリストの苦難と死の意味を言っている。それは「私たちの罪に対する弁済」のためである(40問)。
 さらに、この死をとおして「主は私たちのために神の恵みと義と永遠の生命を獲得し給うた」こと。これは、神のもとでのキリストの行為、贖いを示している。この贖いは神の裁きであると同時に神の恵み、憐れみの提示であった。「キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛・アガペーを示された」(ロマ5:8)。このキリストの死が「神の恵みと義と永遠の生命を獲得させる」つまり、救いを実現する。贖いとは、隷属からの解放であるばかりでなく解放の新しい事態、救いをも意味する。
 39問「主が十宇架につけられ給うたということは、別の死に方をされたよりも、さらに大きな意味があるのですか。答、そうです。そのわけは、十宇架の死は神によって呪われたものものであったのですから、主が私の上にかけられている呪いを身に引き受けてくださったということを、私はそれによって確信するからです」
 この問答も割合重要である。十宇架の死というキリストの死に方には、二つの文脈がある。一つは十字架はローマ帝国が国家への反逆罪に当たる者に課した処刑方法で、反逆者でも身分の高い貴族や高位の軍人などには、追放処分をもって罰し、これを課さなかった。ローマでは逃亡奴隷や植民地の身分の低い者、住民の反逆者に対して十字架刑が課せられた。スパルタクスの反乱者(前60年)やシリアに鎮圧にきたヴァルス将軍は、ローマ支配に反抗した二千のユダヤ人をエルサレム周辺で十宇架につけた(前4年)。ユダヤ総督アレクサンドロスヤコブとシモン(ユダの子)とをメシア運動の指導者との理由で十宇架につけた(後46年ころ)。ユダヤ戦争(66~70年)で戦ったユダヤ人、特に熱心党員なども多数十字架にっけられたという。イエスの十宇架の死をこの文脈から解釈しようとする人びとは多い(土井氏)。 しかし、この解釈の立場では、キリストが「直接的に」熱心党員のような思想・行動をしたとの確証が必要となるがその確証はない。それで、キリストの十宇架を「ローマの処刑方法」の側面からだけ解釈することは困難となる。
 ここで重要となるのが「ユダヤ教からの線」である。ユダヤ教では、木にかけられて処刑される者は神から呪われた者である(申命21:23)。ガラテヤ3:13「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださった」。ピラトをしてキリストを十字架につけさせたユダヤ当局の意図も、キリストに神に呪われた瀆神者のレッテルをはることであった。しかもそれこそ神の摂理であった。「このイエスが(十字架の死に)渡されたのは、神の定めと予知とによる」(行伝2:23)。ここにキリストの十字架の持つ深い奥義、神秘がある。キリストが神に呪われた者として死ぬことをとおして「私の上にかけられた呪いを身に引き受けてくださった」からである。ーー「私たちは、キリストを私たちの罪の中に、呪いと死の中に封じこめられた方として、考えなければならない」(ルター)、「キリストは私たちの上にかけられている呪いを身に受け、私たちに代わってそれを忍び、私たちに代わって死に給うた」(バルト)。神の隣れみの破壊者である罪人への裁きと呪いがキリストの上に転嫁・転移されて罪の裁きはキリストご自身のみがこうむることとなった。神の裁きはキリストにのみ起った、キリストをとおして、キリストへの裁きをとおしてのみ起った。かくして神の裁きは罪人には、罪ゆえの罰から免除されたと。神の裁きは、いわば罪人、私たちを「過ぎ越したのだ」。これが「聖金曜日、キリストが十宇架で死に給うた日の福音である」 ロマ5:8にある「神のアガペー・愛」は、キリストの十字架の死をとおして私たちに示された、とある。神の愛は人間の「情愛のある、優しい、暖かい」ものとはどこか異質で、罪人の罪・痛み・悲しみを共に担う愛、つまり「憐れみ」ー苦しみを共に担う愛の形であること、「あなた自身の胸も剣が剌し通すでしょう」ルカ2:35、という感じ、胸を突かれる感じでしかキリストの十宇架の死を受け取れない点は、私たちが心に刻みかみしめなければならないポイントだと思う。