建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

み子の献身  Ⅱコリント5:19

2005-3(2005/4/24)

み子の献身  Ⅱコリ5:19
 イエスの十字架の死を、パウロは一方では父なる神の行為とみなした。ロマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛をしめされた」。(Ⅰヨハネ4:10「私たちが神を愛したということにではなく、むしろ神が私たちを愛して、み子を私たちの罪の贖いとして派遣してくださった、まさしくこの点に愛がある」)。Ⅱコリ5:21「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは私たちがキリストにあって神の義となるためである」
 他方ではパウロも他の文書も十字架をみ子自身の《自発的な行為》とみた。ガラ1:4「キリストは私たちを今の悪の世から救い出すために、ご自分を献げられた」。2:20「私を愛し私のためにご自分をささげられた神のみ子」、テトス2:14「キリストは、私たちをすべての咎から贖い出すために、ご自分をささげられた」、黙示録1:5「イエスキリストは私たちを愛し、その血をとおして私たちを罪から解放してくださった」  ピリピ2:6~11(パウロ以前に存在した、聖礼典的な式文で、通常「キリスト賛歌」と呼ばれる)の、特に8節ではこう述べられている「キリストは謙遜で、死に至るまで、十字架の死に至るまで、服従なさった」。ヘブル5:8「キリストはみ子でありながら、自分の苦しみによって服従を学なばれた」。

 新約聖書はこのように、キリストの十字架の死を一方では「神の業」、他方ではキリストの「自発的な自己放棄」とみなしている。言い換えると、父と子の行為が一致していると考えているのだ。
 両者の行為的一致を表現した箇所が、Ⅱコリ5:19である「神はキリストのうちにいましたもうて、世をご自分と和解された」。神はキリストのうちにいまして、死に行くキリストおいて行動され、苦しまれたのだ。