建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の愛  ロマ8:31~32

1997-36(1997/9/7)

神の愛  ロマ8:31~32

 「ではこれについて何と言おうか。もし神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できようか。神はご自身の御子を決して惜しむことをなされず、むしろ私たちすべての者のために御子を引き渡された。どうしてそのお方がなおさら彼と共にすべてのものを授けられないないはずがあろうか。誰が神の選ばれた者たちを告発できようか。神は義を告げられた。誰が永劫の罪に定めることができようか。キリスト・イエスは、死んだお方、むしろよみがえられたお方であるが、神の右に座して、確かに私たちの執り成すお方である。誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができるはずがあろうか。試練か、苦境か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」。
 修辞疑問はその答はノーとなる。「いや誰もーーできない」。「誰が私たちに敵対できようか」。「いや誰にもできない」。「神が私たちの《味方である》」は、「for us」と翻訳されるもの。詩篇には「神が私たちと共にある」という表現がみられる。詩23:4、46:7、10など。56:11では「私は神に信頼するゆえに、私は恐れることがない。人は私に何をなしえようか」。しかしここの「味方である」は「神、私たちと共に」「神への信頼」を先鋭化した表現。詩118:6、引用。ここではこの「味方」の内容が具体的に示されている、それが神の愛である、32節。
 32節。「神はご自身の御子を決して惜しむことをなされず」。まず表現的には創世記22:16にアブラハムのイサク奉献と共通している「あなたは私のゆえに、あなたの子あなたの愛する者を惜しまなかった」。これはアブラハムの神への畏れ・信頼を表現している。これに対して、ここでの「ご自身の御子を惜しまないで」は、神の私たちへの愛、神は御子よりも私たちを愛してくださった愛を意味している。
 後半の「むしろ私たちすべてのもののために御子を《引き渡された》」は、周知のように「受難用語」で、十字架の死、キリストの贖いの死へと引き渡した、という意味。この「引き渡す」はイザヤ53:6「主は私たちの罪のために彼を《引き渡された》」(ギリシャ語訳)に由来する。
 《神が御自分の御子を惜しまず、 十字架へと引き渡された》は、新約聖書全体の中心メッセイジである。他方この箇所は、弟子集団にとって十字架の出来事を解明する決定的なものとなった。イエスの十字架は当初、イエスの活動がユダヤ教当局からみて「瀆神罪」に該当すると告発され、イエスは神を瀆すものとして死刑判決をうけたものであった。したがって弟子集団にはイエスの十字架はイエスの活動の挫折であり、弟子たちの希望をついえさらせるものであった。失望し、落胆した弟子たちは故郷ガリラヤにもどった。これが生前のイエスの活動からみた十字架である。ところが、復活のイエスに出会った弟子集団は、イエスの死刑判決、すなわちイエスの十字架の死を復活の視点、神からの視点からみることができた。その結果、十字架について全く新しい認識に到達しえた。それは父なる神が、御子、子なる神を見捨てるという秘儀、み子をすててまでの私たちを愛してくださった神の愛の出来事であることを把握しえた。イサクは沈黙のままであったが、御子のほうは、ご自身を見捨てられる、父なる神に壮絶なる叫びをあげた。にもかかわらずキリストは私たちのためにご自身を引き渡された(ガラ2:20)、御子の愛の出来事、これが十字架であった。それゆえこのパウロの言葉は、神の愛が何であるかを示す、決定的なものである。
 神の愛は自分にとって最も貴重な大切なものを犠牲にする、神の「自己犠牲の行動」であって、キリストの十字架の贖いの出来事の主体は、神であったこと(ヨハネ3:16)を言っている。キリストご自身の「生命を捨てる」行動である(ガラ2:20、エペソ5:2)以上に、神ご自身の愛の行為である、と。              
 後段「どうして彼・御子と共にすべてのものをくださらないはずがあろうか」。「くださる、授けてくださる」は「賜物を与える」という意味で、神の無条件的な恵みの贈与のこと。「御子と共に」は「御子ばかりでなく」(協会訳)の意味ではなく、御子とともにすべてのものがキリスト者に与えられるという意味。御子がすでに与えられたものは、復活の生命と栄光・高挙であるから、ここの「すべてのもの」は究極的な救い、体の贖いと解することができよう。