建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、御子の像と同じ像に  ロマ8:28~30

1997-35(1997/8/31)

御子の像と同じ像に  ロマ8:28~30

 「しかも私たちは知つている 神が愛しておられる人々、すなわち選びにふさわしく召されている人々には、神はすべてが善きものとなるようにと働きかけてくださっていることを。神が前もってお選らびになった人々を、神は御子の原像と同じ像になるようにと予定されていたからである。それは、御子が多くの兄弟たちのあいだで長子となるためであった。神が予定された人々、神が召していた人びと、これらの人びとを神はまた義とされたもうた。究極的に、神は義とされていた人びとを栄化されたもうのだ」ケーゼマン訳。
 ここでは「神が愛しておられる人びと」「選びにふさわしく召された人びと」「神が予定された人びと」「神が召していた人びと」はすべて信仰者としてのキリスト者のことである、ヴィルケンス。
 二つのポイントを取り上げたい。第一に、29節の「御子の原像と同じ形になる」について。
 「御子の原像・エイコーン」において「エイコーン・像・原像」は、「似た姿・似像」ではなく、「本質の出現」である。キリストは「神の像・かたち」(第二コリ4:4、コロ1:15)は、神の本質の現われを意味する。「同じ像・スムモルフォス」はピリピ3:21「御子の栄光の体と《同じ像》にされる」と同様《存在の変貌・変化》を意味している。ロマ6:5においては、キリストの死と「ホモイオーマ・同じ姿となる」とあって、キリストの死自体とその「同じ姿」は、区別が存在した。しかしここの「同じ像」は、区別ではなく、むしろ相手の存在(様式)へとこちら側が「変貌させられる」(第二コリ3:18、ロマ12:2)がテーマとなっている。
 第一コリ15:49では「私たちが地上的なかたち(エイコーン)をもっているのと同じように、また天的なかたち(復活されたキリストのかたち)をもつであろう」すなわち復活において存在の変化をとげる、とある。第二コリ3:18「私たちはおおいのない顔で、主の栄光の反映を眺め、栄光から栄光へとこの像(キリストの栄光の像)へとみ霊における主によって《変えられていく》」においては、福音の働き、み霊の働きをとおして(ロマ8:11)この変貌が絶えず深められていくことを言っている。このキリストの像への変貌を根拠づける一つが、ロマ6章の洗礼であり、第二がロマ8:18の、キリスト者の現在の苦難「キリストと共になる苦難」である、この苦難が将来の復活、キリスト者の存在の変化を約束する。
 ここでキリストご自身とキリスト者との相違・区別よりも、「同じ像となる」ことが強調されている点は、29節後段「それは御子が多くの兄弟の中で《長子》となるためである」にもみられる。「長子・プロートトコス」(コロ1:15、ヘブル1:6)は本来、「第一のもの、最初に生まれた者」のことで、ヤハウエに選ばれた民イスラエルを指していた、エレミヤ31:9など。後にはメシアを意味するようになった。パウロは復活したキリストが終末時の救いの世界の「長子」としてご自身のまわりに新しい救いの教団「兄弟たち」を呼び集めるお方だとみなしている。
 このポイントは、8:24「体の願い・救いへの待望」をより具体的に表したものといえる。この場合、キリスト者の存在の「変貌」をパウロは、死人の復活とは区別して考えていると思われる。第一コリ15:52に着目すれば、終りの時「死人は朽ちないものに《よみがえらされ》、(生きている)私たちは《変えられる》」。この「変えられる」は地上的な身体的存在から「朽ちないもの」へと変えられることを意味する。
 言い換えると、パウロがいう「御子の像と同じ像になる」は遠くない将来、パウロが生きている間に「私たちの卑しい体をキリストの栄光の体と同じに変えてくださる」との出来事が待ち構えている、とパウロはいっている。
 (2)30節。パウロは選び、義認に続けて「栄化」をいう。「神は義とされた人びとを栄化されたもう」。このキリスト者の「栄化」については17節にも出てきた。そして「栄化」は先の第二コリ3:18「主と同じ像に変えられる」、ピリピ3:21を意味している。すなわち、宗教改革者や後のプロテスタントは、パウロの見解のうち「義認論」にのみ.焦点を当てて、それを「義認と聖化」の方向へとまとめたが、しかし「義認と栄化」の線については展開しないかったという印象がある。それゆえここにある「義認」について「栄化」をもっと真剣に私たちは把握すべきである。この栄化はむろん24、25節における「目に見えないものに希望をいだく」というパウロの希望論の中心ポイントであるからだ