建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、希望について 2  ロマ8:22~25

1997-33(1997/8/17)

希望について 2  ロマ8:22~25

 「というのは私たちは次のことを知つているからだ、つまり被造物全体が今日に至るまでうめき、そして産みの苦しみをしていることを。しかしそればかりではない。最初の賜物としてのみ霊をもっている私たち自身もまた、神の子らとされること、自分たちの体の贖いを待望して、自分たちの内面でうめいている。この希望によって私たちは救われている。しかし人が見ることができる希望は決して希望ではない。というのは人が見ることができるものに、どうして《希望をかける》はずがあろうか。しかしもし私たちが、自分たちが見ることのないものに希望をおくならば、忍耐してそのことを待たねばならない」。
 23節では全被造物の、虚無からの解放を待ち望む「うめき」と並行して、キリスト者自身の「うめき」をパウロは述べる。第二コリ5:2。キリスト者はここでは「最初の賜物」すなわち終末時の救いの現実の力、つまり「み霊」をすでに今自分で体験した存在である。パウロはすでに8:15で「神の子らとしてのみ霊を受けた」で、洗礼において神の子らとされると述べたが、ここでは「神の子らとされる」は「待ち望み」の対象としている。
 「体の贖い・アポルトローシス」はここのポイントである。「贖い・救い・アポストローシス」は3:24「キリスト・イエスにおける贖いをとおして義とされる」こと、第一コリ1:30。この用語はキリストの十字架における救いの出来事を意味している。特に解放、救出を意味するので、何からの救いが重要となる。その場合、プラトンらの、霊魂の不滅説、すなわち魂が死において肉体から解放されること、はここでは問題とはならない。では何からの体の解放なのか。パウロはこれまで「体」について、「誰がこの死の体から私を救ってくれるのだろうか」と(7:24)、「あなたがたの死ぬべき体」6:12、8:11と言われてきた。むろんここでも「体の贖い・救い」は「死の体・死ぬべき体」からの解放・救いを意味している。直接的には21節の「死滅性の隷属からの解放」を意味している。しかもこの「体の贖い・救い」は「神の子らの出現」と結合されているので、23節、神の御子として復活したキリストにおいてすでに実現された事柄「体の変容」と関連するであろう。「御子の形と同じ姿に与らせてくださる」(29)。ピリピ3:12、引用。7:24のみじめな人間の叫びは、この「体の救い」において究極の回答が出されるのだ。言い換えれば、この,「体の贖い・救い」とは、死人の復活(第一コリ15章)「体のよみがえり」(使徒信条)を指している。
 24節。「私たちはこの希望によって救われている」。キリスト者はキリストの死の働きをとおしてまた、復活されたキリストとの結合に基づいて、救われている。ここで「希望によって、救われる」をバルトは解釈している「完全に異種のもの、未知のもの。到達しがたきもの、『神の永遠の力と神性』(1:20)がキリストをとおしてわれわれの世界に入り込んだためである」。
 またここの翻訳として「希望の状況において」とする立場もある、ケーゼマンなど。しかしながら、この救いの身体的な現実化はなお残されている。
 ここでもキリスト者の「すでにといまだ」の逆説がある。一方でキリスト者はキリストの贖いの死の働きによって罪と死の支配から解放されている。他方ではキリスト者は近き終末にいたるまで、いまだ試練と苦境、滅びの力に規定された死滅性のもとにある。体の贖いへの希望はこの「いまだ」から起きるものである。
 キリスト者の希望は「目に見えるもの」と対立する。第二コリ4:18。「目に見えるものは一時的であり(移ろうもの・過ぎ去るもの・時間的)、目に見えないものは永遠である」。
 「人が目に見えるものは希望を抱くにはおよばない」からだ。ここに関して「目に見えるものにいったいどうして《忍耐して待つ》だろうか」との読み方がある。バルト、ケーゼマンが採用している。
 古代ギリシャのツゥキディデスの「戦史」(5:104)ではアテナイ軍はメロス側の見解をこう批判した、「彼ら・メロス側は苦境におちいるやいなや、《目に見える希望》を棄てて、《目に見えないもの》ーー神託、占い、人を活気づけては滅びに至らせる《希望のたぐい》に身を委ねる」。ツキジデスは「目に見えないもの」を「困った時の神頼み式の」非合理的、狂気的な希望の形とみなし、他方「目に見える希望」として圧倒的勢力で征服のために侵攻してきたギリシャ軍への屈伏して、生命をながらえる道を言っているが、メロス側は徹底交戦を選び、滅亡した。
 これに対して、パウロは可視的なものは「一時的、暫定的、地上的」であり、それゆえ「肉の分野に属す」が(ブルトマン)、不可視的なものは「永遠であり」、神の領域に属すとみる。パウロはこの「永遠なるもの」で体の救い、「復活の生命」を想定している。
 25節「目に見えないものを待ち望む」は、「永遠なるものへの希望」と定義できる(マルセル)。「私たちが目に見えないものに希望をもつなら、忍耐して待ち望むのだ」における「希望と忍耐」。「忍耐して待つ」こと自体が目に見えないもの、希望に属しているといえる。キリスト者は究極的な救いをもとめてうめいているが、この点で被造物のうめき(19節)と連帯している。
   希望は目に見えないものに向うが、24節、「忍耐して」という言葉で、天的なものから目を移して地上的なものへ、そして地上的なものから終末、完成へと向う。この完成とはからだのよみがえりによって試練が克服されることである。パウロが考えているのは、現在においてすでに一切のものから解放され、救いがすでに完成しているとみなし、自分たちをもはや十字架のものとにはいなしとみなした霊の所有者、熱狂主義者への批判である。パウロは、教会においてばかりでなく苦しみのなかにある被造物に対しても愛と奉仕の領域を創り出す、とみている。
 「希望が目に見えないものに向う」は、いくつかの文脈をもっている。アブラハムとの関連では、いまだ目にみえない、将来的な神の救済計画に希望をいだく、これがアブラハムの希望の形であった。ここでも「目に見えないもの」は同じく、将来的な神の救いの計画、死滅性からの体の救い、キリストご自身の栄光の体と同じ姿に変えられること、を意味していよう。したがってこの将来的なもの、目に見えないものに本当に希望をかけること、これがキリスト者の希望である。「パウロは試練の厳しさ、苦境を知つていた。それゆえ宇宙のすべての惡しき権力に対する神の勝利を燃えるように待ち焦れた。彼にとって死人のよみがえりは、単に将来に開かれた存在の象徴ではなく、地上的な苦しみの終りであったからだ」ケーゼマン。
 その場合、この希望をはばむものはさしあたりキリスト者が直面する「目に見えるもの苦難と死」のテーマである。死によってだめになってしまう、頓挫する人間の願望像は真の希望とはなりえない。死によってその願望像は崩壊するからだ。しかしキリスト教の希望は死の彼方を望みみる。「永遠なるものへの希望」とは、地上の生活の時期だけ希望をいだくのでなく、自分たちの死後にまで希望をいだくことである。「体の救い」という希望も自分たちの死後に起きる、復活への希望である。この点パウロと現代のキリスト者との大きな違いである。
 希望は忍耐によって確証される。「忍耐」ぬきの希望は、いまだ希望をいだく以前か、その希望像が「希望と空想との境界線」にある。「キリストへの希望の忍耐」第一テサ1:3によれば、「希望に基づく忍耐」が存在する。中間時のキリスト者のありようは、希望に基づくこの忍耐にある。