建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

み霊の執り成し  ロマ8:26~27

1997-34(1997/8/24)

み霊の執り成し  ロマ8:26~27

 「しかしみ霊も同じように、私たちの弱さを受け入れたもう。というのは、私たちは何を祈るべきか、どのように祈られねばならないかを知らないからだ。しかしみ霊は私たちに代わって言葉ならざる私たちのうめきを、執り成したもう。しかし心を究めるお方は、み霊が何を考えているかを知つておられる。み霊は、神のみ旨にかなうように聖徒らを執り成したもうからだ」。
 26節。神の子らの出現への待望とうめきは、被造物全体とキリスト者との、いわば合唱であった、21~25節。ここではそれに加えて「み霊の執り成し」が登場する。
 何かを待望して忍耐する、というのは、言うにいわれない緊張と試練の苦しさをともなうものである。それは、旧約聖書ユダヤ教において共通した事態であった。しかしここでは事態はそれと異なって、待望するキリスト者、試練の中にあるキリスト者のもとに、今や直接、み霊が介入される「私たちの弱さを助けにきたもう」。
 26節の「私たちの弱さ」は、内面的な無力さ、不完全さ、祈りの弱さのことではなくもっと具体的な状況、キリスト者の実存の外面的な試練のこと、ケーゼマン。
 み霊が私たちの弱さを「助ける」(協会訳、松木訳)は、弱さを「受け入れる」ヴィルケンス。ケーゼマン訳は「助けにやってくる」。これが一番よい。試練にあうキリスト者をみ霊が助けにきてくださる、とのみ霊の生き生きした作用、空間的な動きが明らかになるから。

 中段の「祈る・プロスーコマイ」は「祈る、訴え求める、嘆願する」の意味。文脈的にみて、祈りのテーマが出てきたのではなく、25節の「目に見えないものに希望をいだいて忍耐して待つ」を受けて、言われている、ヴィルケンス。すなわち、希望をいだく人間は、自分が何に希望をかけているかは知つているはずである。「将来的な栄光」18節、「滅びからの解放」21節、「体の救い・贖い」23節について、言葉として知っているが、その実体については知らない。というのは、それらは「目に見えないもの」であっていまだに実現していない終末時の救いであるからだ。これは本来、表現不可能な事柄なのだ、第二コリ12:4。現在の救いと将来的なそれとの間には距離があって、終末時の救いの現実を「どのようにして言葉で表し、嘆願し、祈るのか」わからないのだ、とパウロは考えている。
 後段「言葉ならざるうめきをもって」は、この箇所で難しい表現。だいたいここは翻訳も難しくさまさまに解釈されてきた。
 まずケーゼマンの解釈。第一コリ14章における「異言」が問題となっている、と解釈している。14:2、5、9、特に13:1「天使のたちの言葉を使う」14:14「異言をもって祈る」「霊で祈る」という言葉はここと関連していよう。み霊がみ使いの言葉、天的な言葉を語らせることは終末時のしるしとパウロは考え、目らも異言の能力があるという、14:18。「異言」は、キリスト教の礼拝においては「み霊の働き」とみなされていた、という。しかし異言は、単なる声であって解釈なしには何を言っているか他者には理解できなかった。第一コリ14:15以下。
 うめきは、救われざる被造物があげるもの、試練の中にある信仰者が体の救いを待望して発するものであった、ロマ8:18以下。み霊はキリスト者に与えられた「父よ」と呼びかけさせる働きをもっているが、ロマ8:10、他方で、み霊は礼拝においてこの「うめき」をも発生させる、これが終末時の救いをもとめる叫びであり、うめきである。このうめき、叫びはみ霊が教会を執り成すお方であることのしるしである。これは高くあげられたお方、キリストの執り成しである。み霊は高くあげられたキリストの地上的な臨在であり、教会の礼拝、務めをとおして働きかけ、執り成しをなさる。天上にあげられた主と地上においてまだ試練の中におかれている教会、キリスト者の間における、このような交流、執り成しが存在している、とパウロは告げている。み霊のとりなしは、異言的な叫びうめきの中で起きる。8:34でパウロは、あげられたキリストの執り成しについて語るが、パウロにとってその執り成しの実体は、このようなものであった。
 松木の注解は、この「うめき」を「み霊のうめき」と解釈する「聖霊そのものが、私たちの内にあって私たちをとらえ支配し、父なる神の前に私たちのために私たちに代わって《うめきつつとりなす》」。これはよくないであろう。み霊がうめくのでなく、み霊が人にうめきを出させるのだ。
 ヴィルケンスは、むしろみ霊は自らうめくのではなく「私たちのうめき」を私たちに代わって《翻訳する》、うめきを神が約束された事柄の言葉に翻訳、解釈して、神に執り成すお方であるとみる。神は「人の心を究めるおかた」であるが(サムエル前16:7、詩7:2、17:3)、神はみ霊が私たちのうめきが表現している事柄で何を考えているかを、知つておられる。み霊は私たちに代わって、私たちのうめきでしかないもの、それゆえパウロは言葉にならない叫び、うめき(試練にある人々の「弱さ」としか言いようのないもの)をきちんとした言葉、意味あるものに翻訳してくださる、あたかも他人には聞き取れない幼児の言葉を母がわかりやすい言葉に言い換えて伝えるように、うめきの内容を神に執り成される。
 ケーゼマンの執り成しの解釈ではどちらかというと、天の神の右に座したもうキリストと試練の中にある地上の教会、キリスト者の間で起こるが、それに対して、ヴィルケンスは、この執り成しが起こるのは、キリスト者の「心の中」だとみている。
 現代の私たちにとって、パウロがみ霊の執り成しをこのように具体的に語ったことは忘れがたい。「言葉ならざるうめき」自体は中間時におけるキリスト者の本質的な特徴といえるが、現在のキリスト者にも違った形の「うめき」が存在する。苦しみの中にあって、心からひたすらその苦しみからの脱出を求める人々の間で。そのうめきの声はみ霊の助けで、御心にかなうように修正されてもいいから、神に聞きとどけてほしいとの、祈りの一歩手前のようなものとして、存在する。