建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、キリストと共に苦しむ  ロマ8:16~17

1997-31(1997/8/3)

キリストと共に苦しむ  ロマ8:16~17

 「み霊自らが私たちの霊に、私たちが神の子らであることを証言してくださる。しかももし神の子らであるなら、相続人でもある。キリストの共同相続人として神の相続人でもある。もし私たちがキリストと共に苦しむならば、それはキリストと共に栄化されるためである」
 16節。「アバ」との祈りの呼びかけにおいて、「神のみ霊」が私たちの霊に私たちが神の子らであることを証言する。ガラ4:6参照。引用。「私たちの霊」は神の証言を受け取る人間の機関のことで、第一コリ2:10と同様。他方「私たちの霊」をキリスト者らに内住する「神のみ霊」とみる解釈もある。「証言する」は原語では「共に証言する」という意味で、主語が二つあることを予想させる。それで外からの、礼拝的に現われるみ霊とキリスト者らの中に住んでいるみ霊(10、11節)この二つが相呼応して証言するとの解釈も成り立つ(ケーゼマン)。パウロの考えでは、「キリスト者らが神の子らとされる身分を授けられたことを証言する」のは、個人のキリスト者の内面において起るのではなく、むしろキリスト者共同体の礼拝において《私たちの外にあるみ霊》をとおして体験される、つまり礼拝において出現するみ霊による。み霊の出来事が礼拝や洗礼式と結合し、また祈りの言葉「アバ」と結合している点、すなわちキリスト者たちの口から出る祈りの言葉の形で実現した点は注目すべき、重要なポイントである。
 17節前半「もし私たちが神の子らであるなら、またキリストの共同相続人として神の相続人でもある」。ここでの「相続人」は将来的な神の国・支配を受け継ぐ者という意味である。ガラ4:7 「あなたがたが子である以上、神の相続人でもある」。パウロが「キリストの共同相続人」というのは、一種独特の意味合いがある。この地上における現在の時点で何を担うか、がポイントである。
 
17節後半「もしキリストと共に苦しむなら、それによって私たちもまたキリストと共に栄化される」。ここにはマタイ5:3「幸いなるかな、心の貧しい入たち。天国は彼らのものだからである」、10 「幸いなるかな。義のために迫害されてきた人たち。天国は彼らのものだからである」 との共通認識がある。イエスは《イエスに従う者たち》にこう語られた、「私のあとについてきたい者は誰でも、自分を捨てて、自分の十字架を日々自分の身に負いつつ、私のあとに従つてきなさい(ルカ9:23)。パウロはイエスに従う者たち、キリスト者の決定的な《しるし》を現在の地上の生活で「キリストと共に苦しむこと」とみた。「キリストと共に苦しむ」は神秘的体験とか瞑想的追体験の内容ではなくまずもって「洗礼」において《キリストの苦難に与る、すなわちキリストの死と同じ姿になる》(6章)に根拠づけられる。キリスト者の体験する苦しみは、「キリストの苦しみを共にする」こととして、彼らが「キリストに属しているしるし」である。
 その場合「キリストの苦しみ」は復活によって乗り越えられた「過去のもの」とはならない。キリスト者共同体、使徒、個々のキリスト者が苦しむ時、彼らの苦しみは「キリストの死」に対応したものあるばかりでなく、どこかで、キリストの死と接触するといえる第二コリ4:10~12「私たちはいつもイエスの死(殺害)を自分たちの体にまとっている(負っている)。それはまたイエスの(復活の)生命が私たちの体に現われるためである。というのは私たちはいつまでもイエスのために生のただ中にあって死に引き渡されているからである。それはまたイエスの生命が私たちの死ぬべき体に現われるためである。かくてその死は私たちの内に、しかしその生命はあなたがたの内に働くのである」(ヴェントラント訳)。パウロは、ここで宣教にたずさわる使徒たちが十字架で殺害されたイエスの死を身に負いつつ、伝道旅行をしているという(「負いつつ巡り歩るく」)。「イエスの殺害」(4:10)は過去の十字架におけるイエスの死を指している。ところが「その死は私たちのうちに働く」(4:12)の場合は、「イエスの死」は決して,「過去のもの」ではなく、パウロらに《今ここで作用している現在の力》を意味している。すなわちイエスの死、苦難は単に過去のものではなく、キリスト者の苦しみの中に現存し、現在のキリスト者の苦しみの中で《いつも》体験される。言い換えると、ここでの「キリストの苦しみ、死」は一度限りの救いの出来事であるばかりでなく、キリスト者による「キリストと共なる苦しみ」をとおして現在化されるのである。
 ボンヘッファーもこう述べている、
 「キリストは、その苦しみの力において《キリストのために》苦しむことを許されるという、はかり知れない恵みを与えたもう。…われわれのために与えたまい、われわれの罪のために罰を受けたもうたキリストの体が、われわれを解き放って、死においても苦しみにおいても、《キリストのために》存在せしめたもう。今やキリストのために働き、かつ苦しむことがありうる。それはわれわれにあらゆることをなしたもうたキリストの体のためになすことである。それはキリストの体の交わりにおける奇跡であり恵みである。……キリストの体(=キリスト者共同体)には、ある一定の苦難が定められている。神はある人に他者に代って特別の苦しみにあうように恵みを与えたもう。苦難はまさしく成就され担われ、そして克服されなければならない。キリストの体のために苦しむ資格を神から与えられた者は幸いである。そのような苦難は喜びである(ピリピ2:17)。信じる者はそのような苦難にあって自分がイエス・キリストの死を体に負い、キリストのみ傷の跡を身に帯びていることを誇ることが許される」(「キリストに従う」)。
 ピリピ1:29「あなたがたには、キリストのために、キリストを信じることばかりでなく、《キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている》」。ここの協会訳「彼のために苦しむことをも賜っている」は少しあいまいである。原文は「キリスト信仰とキリストのために苦しむこと、この二つを恵みとして与えられている」という意味である。
 17節後半「それは私たちがキリストと共に栄化されるためである」。「栄化される」は受け身形で、この栄化が神の業であることを言っている。この終末論的な栄化については第二コリ3:18では「(その時には私たちは)栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」、ピリビ3:21「キリストは私たちの卑しい体をご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださるであろう」。地上において主の苦難に与った者のみが、主の栄光にあずかる、ケーゼマン。キリスト者共同体は、現在ここでキリストと共に苦しむことにより、何をなしているか、を神から問いかけられている。そしてその苦しみを嘆きやぶやきばかりでなく、その苦しみにあずかることを特権、恵みとして受けとめているか、をも。