建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死後キリストと共に  ビリピ1:20~23

2001-48(2001/11/25)

死後キリストと共に  ビリピ1:20~23

 パウロキリスト者の復活を「キリストの来臨とは別の時点でも起こる」と考えていたようにみえる。
 「私の渇望している希望は、…生をとおしてであれ死をとおしてであれ、私の体でもってキリストが公然と栄光を受けられるようになることである。なぜなら私にとって生はキリストであり、死は利益だからだ。…私が切望しているのは、世をたち去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかに善いからだ」(ピリピ1:20~23、ローマイヤー訳、EKKの注解書はいまだ出ていない)。
 この書簡は工ペソの牢獄から出された獄中書簡である。キリスト宣教のゆえにローマ帝国当局によってパウロは獄に入れられた。「私の拘留が近衛全体とその他すべてにキリストにあって公然と知れ渡った」(1:13)。「今や裁判の公判がパウロの眼前に追っている。彼が無罪放免を宣告されて新しい活動に呼びもどされるにせよ、あるいは有罪判決をうけて死の権能の掌中に陥るにせよ」(バルト「注解」川名勇訳)。パウロが、死すなわち「殉教の可能性を想定していた」ことは、「たとえあなたがたの信仰のいけにえの儀式に私が血を流すことがあろうとも、私は喜ぶ」(2:17)からもうかがい知ることができる。
 「なぜなら私にとって生はキリストであり、死は利益だからだ」(21節)について。
 「生はキリスト」は、説明不足で文意が必ずしも明らかではない。バルトはこの言葉に対する「決定的な注釈」がガラ2:20であるという、「私は生きている。しかしもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」。そしてバルトはこの「生」(21節)を人間パウロ自身の「生」という意味(22節「肉にある生」)に解してはならないという。パウロの「生」は《他なる》生であり、それはキリストご自身である。「この現在的な生の中にあるのは、私固有の生ではなくて、キリストなのだ」(クリソストモスの解釈、引用はバルトの注解から)。
 「私は生きている、しかし私の生はキリストによって逮捕され、拘留されている、こうして私に代わって、私のために、キリストが私自身の生を生きてくださっている。[キリストとの]間接的同一化である。…キリストは私に代わって代理的に生きたもう」(バルト)。キリストとのこの間接的同一化の箇所として次のものをバルトはあげた、「私たちの体に現われようとするイエスの生命」(第二コリ4:10)、「内なる人」(同4:16)、「キリストにある新しい被造物」(同5:17)、ガラ2:20「私を愛し私のためにご自身を渡したもう神の子を信じる信仰にある生」など。
 「自分の死は利益だ」(21節)の意味について。
 パウロにとって死は決して一般論ではなかった。エペソでローマ当局によって近衛隊兵営に投じられて裁判を待つていたからだ。しかしこの文からはパウロの述べた内容はつかみにくい。現代人に感覚では「死はすべての終り、死んでしまえばそれまで」であるから、損失ではあっても、利益とは考えにくい。パウロにとって「死」は、すでにみたように「殉教」を暗示していた。死はパウロに何をもたらすのか。ここではパウロが語っている文脈を把握することが不可欠である。前の20節でパウロは「生によってであれ、死によってであれ、私の体でもってキリストが公然と栄光を受けるようになる」との「希望」を述べた。ここでも「キリストが栄光を受ける」という視点から、彼の「死は利益」と解すべきである。