建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリストと共に3  ピリピ1:21~22

2000-37(200/10/15)

キリストと共に3  ピリピ1:21~22

 「死は利益だからだ。しかし肉にある生の場合は、それは私には業の収穫である」

 「死は利益」について。この文からはパウロの述べた内容はつかみにくい。現代人の感覚では、「死はすべての終り」であるから、損失ではあっても、利益とは考えられない。死が《その人》にとってではなく、《他の人々》にとって利益となる場合もあろう。パウロにとって「死」は、すでにみたように、「殉教」を暗示していた。またパウロはここで個人としてか、使徒としてか主にどちらの意味合いで語っているか、というポイントもあるはずだ。死はパウロに何をもたらすのか。したがってパウロが語っている文脈を把握することが不可欠である。前の20節でパウロは「生によってであれ、死によってであれ、私の体でもってキリストが偉大なものとされる」との「希望」を述べた。ここでも「キリストが偉大なものとされる」という視点から、彼の「利益」と解釈するというのが、バルトの解釈である。
 「『利益』はたぶん、パウロが死後の生においてキリストと合一されることを望んでいるというように理解することはできない。この利益は『キリストが偉大となりたもう』と関連づけてられるべきである。『死ぬために《この世から発ち去つて》訣別する』(23節)ことがなぜ《利益》を意味するかといえば、それは肉体の死、彼と共に死ぬことにおいてさえある種の『キリストと共にある』(23節)ことを意味するからであり、キリストはご自分に属す者たちを実際この『彼と共にある』に中に、彼との死との交わり(3:10「彼の死と同じ姿にされて」)の中に受け入れたもうたことによって、彼らの体の生活において完全に《キリストは偉大となる》からである。パウロキリスト者の生活に生じる《利益》はコロサイ1:24によれば、パウロの苦難によって満たそうととする『キリストの患難のなお欠けているもの』に対する対幅をなしている」(「ピリピ書注解」)。
 ローマイヤーの注解は、バルトのものとは違って、パウロ自身にとっての《利益》を強調して、23節と関連づけて「死後の生」のありようの解釈している、
 「殉教者は、自分の外的な運命の中に神的な恵みの啓示がすえられているのを知つている。彼岸的な栄光の光が当てられる時には、殉教の時はこの外的な現存在を神聖な域へとつくり変え、この現存在の束縛が解かれると、やがてキリストとの交わりが実現されるようになる。この束縛を解き放つのが死である。死は現存在からの解放であり、それによって究極の完成にいたらせる。死は『キリストと共に』の生への祝福された移行である」。