建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

貧しい者の希望(六)

1999講壇1(1999/9/4~1999/10/24)

 

貧しい者の希望(六)

 「(モルトマン引用続き)貧しい者たちはこの暴力的で不正な世界で神の国の子らとなる。神の国は《貧しい者のメシア的な王国》となる(シュテーゲマン)。(イエスの約束は貧しい者たちを、つねに暴力が特徴となっている富めるようになる道にではなく、むしろ五千人のパンの給食(マタイ一四:一三以下)で示されたように<分かちあう文化>が当てはまるところの交わり(Gemeinshaft)に至る道へと導く)」(「イエス・キリストの道」)。
 この解釈の特徴は、貧しい者への「尊厳」がイエスの祝福によってもたらされた、という点にある。先のヴェーユの見解「神が労働者らに究極性による労働を可能にしてくださる」に類似した立場である。この尊厳の付与は貧困の解決の一つの形である。貧しさそのものは解決しなくても、貧しさと戦う力を与えられる「貧しい者を立ち上がらせる」からである。神も、そして神が派遣なさったメシアも貧しい者を受け入れ、抱き留め、その慈悲の対象とされる。このことが貧しい者に尊厳を与え、憎しみを克服させる。彼らはマルクス主義的プロレタリアとはなりえない。彼らは無産者であるが、階級的敵への憎しみは奨励されないし、憎しみと嫌悪は彼らを支配する者たちの道であり、彼らはこの憎しみをバネとする人民の団結による革命を指向しないからである。むしろ彼らはイエスの貧しい者への福音と祝福に出会いに喜び、神讀美の姿勢をとることを学び知る。

絶望した者へのメシア的慰め
 貧しい者に対するイエスの祝福においては、「絶望した者」も含まれていると私たちは解釈したが、この点を取り上げたい。「絶望者へのメシア的慰め」「絶望した者の救い主」のテーマである。
 絶望について取り上げる場合、私たちが想定しているのは、あくまで「信仰者・キリスト者の絶望」である点である。絶望は神がその者に対して期待されていることを自分の側で先取り的に決着をつけ神からの期待を投げ出してしまう行為である(マルセル)、だとすればこれは通常罪と言われる。「キリスト者の絶望は、キリストに逆らう一つの決断であり、救済を否定することである。絶望においては罪一般の本質が特別にあからさまに際立つてくる。絶望は永速の生命・キリストへの道を拒否することである」(ピーパー「希望について」)。
 旧約聖書はいくつかの箇所で絶望についてしるしている。この絶望は、イスラエル民族の絶望としてはエジプトでの奴隷的労役やバビロンの捕囚の状況で多くが語られているが、いずれも神義論的問いとの関連、神が信じられないとの嘆き、状況の中で語られる。個人の絶望も個人の危機、苦しみのどん底で語られる。預言者エリアは迫害と砂漠への逃亡の中で神に死を願った「エリアは荒野に入つていってれだま(えにしだ)の木の下に座し、自分の死を求めて言った『主よ、もはや十分です。私の生命をとってください』」(列王上一九:四)。旧約聖書外典にあるトビトはディアスポラユダヤ人で盲目となり、財産を失い、息子も行方不明となった状況で祈っている「今こそ、御心のままに私の魂を取り去り、私を地上から解放して土にもどるようにしてください。私は生きるよりも死んだほうがよいのです」(トビト三:六)。ヨブも苦難の状況で絶望について語る「彼・神は木のように私の希望を抜き去る」(ヨブ一九:一〇)。
 絶望した者が絶望からの解放の言葉、自分たちを激励する約束を聞いても、とうていそれを受け入れない人間の精神的状況がある。モーセがエジプトのイスラエルの人々に奴隷状態からの解放についての神の言葉を語った時のことである。「私はヤハウエ、私はあなたがたをエジプト人の強制労働のもとから導き出し、彼らの労働からあなたがたを救い出し、伸ばされた腕と大いなる審判をもって、あなたがたを贖う」(出エジプト六:六)。しかし「彼らはその(落胆と重労働のために)モーセに聞かなかった」(六:九、七〇人訳)。この「落胆・オリゴプシキア」は、「絶望者・デイロス」(黙示録二一:八、協会訳は「臆病な者」)と類義語で、失望、諦念、悲哀と共に「絶望」の一つの形である。イスラエル人がモーセの解放を告げる言葉を信じなかったのは、彼らが「エジプトの強制労働のもと」で、あきらめと焦燥と絶望の連鎖のもとに封じ込められたからだ。自分の生活を《閉ざされた、出口なき部屋》のようにみなし、その部屋の壁をうがつということ、やがてその壁がこわされる可能性に考えがおよばないこと、それがここの「落胆」である。しかし「希望は自分を取り囲む厚い壁に穴をうがつものである」(マルセル)。イスラエルの民が神による出エジプトを受け入れるようになったのは、モーセによって行なわれた「神のしるしと不思議」奇跡行為であった(四:一以下)。モーセの奇跡行為は、自分たちの現在の経験では不可能にみえることも可能であること、自分たちの神なき生活に神の顧みが存在していることを彼らに知らしめた。「主がイスラエルの子らを顧み、彼らの苦しみに目をとめられたことを聞いて彼らは身をかがめて主を礼拝した」(四:三一)。奇跡行為が彼らを取り囲む厚い壁をうがつもの、希望となったのだ。
 絶望した者に対するイエスの慰め・祝福は、誰を対象にしているのか、新約聖書において絶望した者とは誰であろうか。
 まず「悲しんでいる者」(マタイ五:四)「心の砕かれた者」(マタイ五:五のローマイヤー訳、イザヤ六一:一)があげられる。
 「《悲しむ・ペンテオー》は旧約聖書ではしばしば死者への悲嘆を意味していたが、ここではなにゆえの悲しみかは述べられていない。罪や罪意識ゆえの、自分の不完全さゆえの悲しみと解するのは誤りである《心の砕かれた者》と述べられているだけで、悲しみの理由は十分である。すべての悲嘆は個々人の苦況、とりわけ神に見捨てられたことに基づくものである」(ローマイヤーのマタイ伝注解)。「《悲しんでいる者》との表現によって、この世のすべての悲しんでいる者が包括されている」(ルツのマタイ伝注解)。
 「慰められる・パラカレオー」は未来形の受身形で「神的受身形」慰める主体は神である。「永遠の慰めと善き希望を与えてくださる父なる神」(第二テサ二:一六)。
 次に「取税人と罪人」(マタイ九:九以下、一一:一九)、彼らは社会的に軽蔑され、また当時のユダヤ教の神観では《いつの日にか神の救いにあずかるという希望を絶たれていた》。彼らは律法学者、パリサイ人によって「天国から締め出されていた」(マタイ二三:一三)。イエスは「取税人や罪人と一緒に食事をする」つまり「食卓の交わり」をされて、彼らを「友」として(マタイ一一:一九「取税人、罪人の友」、ルカ九章の取税人の元締めザーカイ)弟子として(取税人レビ)受け入れられた。彼らはイエスのこのふるまいをとおして神の憐れみの支配の近さと神の慰めを体験した。他方彼らを救いから締め出すユダヤ教、律法学者、パリサイ人などの激しい攻撃・批判の的とされた。
 「病人と身障者」も絶望した者に属す。洗礼者ヨハネのイエスに対する質問「来るべきメシアはあなたですか」へのイエスの回答「盲人は再び見えるようになり、足のなえた者は歩き、ライ病人は清くなり、耳の聞こえない者は聞こえ、死人はよみがえらされ、貧しい者らは福音を宣教されている」(マタイ一一:五)。福音書におけるイエスの癒しの記事は膨大なものであるが、一つだけ例をあげる、
 ルカ八:三~四「悪しき霊と病気から癒していただいた数人の女性たちも随行した、すなわち、七つの悪鬼を追い出していただいたマグダラのマリアとへロデの財政管理者クーザの妻ヨハンナ」。マグダラのマリアはイエスによって重い精神疾患を癒していだだいた。彼女はこの治癒をきっかけに故郷の街と家庭とを捨ててイエスの弟子となり伝道旅行に随伴した。ヨハンナもイエスの癒しをきっかけにへロデの財務大臣の妻の地位も宮廷生活も捨ててイエスに従った。病に苦しみ、前途に治癒の希望もなく、この女性らの治癒そのものは彼らに新しい人生と希望を与えた。彼らは離婚などをとおしてかなりの財産をもってイエス随行し、イエス一行を経済的に支える重要な役割をはたした。特にマグダラのマリアはイエスの十字架、埋葬、空虚な墓にも立合い、やがてイエスの復活顕現にも出会った(後述)。マリアとヨハンナは絶望者へのイエスの慰めの典型的な実例である。
 「疲れている者、重荷を負っている者はだれでも私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」(マタイ一一:二八)も絶望者にむけて語られている。「重荷を負っている者」は多くの律法を課せられて、呻吟している者という意味。迫害されている者や労苦して者を含む。(続)