建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活(三) 藤井武(2)

キリスト者の復活(三)

藤井武の来世研究(2)
 「[第一コリント一五:四四]ここにパウロキリスト者の受くべき未来の身体が現在の肉体と全く性質を異にするものである事を明らかにせんと欲して、…豊かなる類例を提供せしめ、しかる後に力強き結語を下して曰く『血気の体ある如く、また霊の体あるなり』と」。
 [一五:四四、文語訳、「ソーマ・プシュキコン」を文語訳は「血気の体」と翻訳した。私たちはバウアーのレキシコンに従って「地上的体」と訳す。ちなみに、バルト、コンツェルマンは直訳で「魂的な体・seelischer Leib」。協会訳「肉の体」は適訳ではない]。
 「霊の体!それである。…霊の体というて物質に対して霊的の体の意味ではない。もししからば体はもはや体ではない。前の語の示すが如く、血気にふさわしき体に対する、霊にふさわしき体である。人の生命のうち神と交通するものを霊といい、それより以下なる思索、感性、情欲などを司るものを血気という。しこうして我らが現在の肉体は疑いもなく血気の体である」。
 [「体・ソーマ」は人間存在の総称であり「肉体・サルクス」は「魂・精神・プシュケー」と対の部分をいう。人間は「ソーマ・体」であり、これを離れて人間はありえない。したがって人間は「肉体であるのではなく、肉体をもつのである」。ブルトマンは人間の身体性を強調した「新約聖書神学」。藤井の場合、この「体と肉体の区別」がもう一つはっきりしないうらみがある]。
 「そはキリスト者の神より賦与せられたる聖[きよ]き霊の活動に応ぜんがためには、余りに不自由にして薄弱にして醜穢[しゅうわい、汚れていること]なるものであるからである。まことに霊は翼を張りて高く広く天翔[あまかけ]らんと欲するも、体はこれを地につなぎて放たない。我らはキリストの相に励まされて人類的熱愛を実行せんとするに当り、弱き身のこれを妨ぐること如何に多いかな。内なる人は日々新たなれども、外なる人は次第に壊れゆきて[第二コリント四:一六]、内外ますます相福[そ]わざる憾[うらみ]がある。これ即ち幕屋なる地上の家である[第二コリント五:一]。即ち血気の体である。しかるにこの体にしても壊れんか、何ぞ憂えん、かえってさらに勝れる体がある、『血気の体ある如く、霊の体あるなり』。霊がその主人として最もふさわしき体、霊が思うままにこれを動かすこれを用いるの体、人のすべての高き理想を遺憾なく実現しうる機関としての身体、したがって『朽ちざるもの、光栄あるもの、強きもの』(第一コリント一五:四二、四三)かくの如きものがキリスト者の来世生活を代表する特殊の生活機関である」。
 また藤井はこう続けている 「元来《血気の体》に適用せらるるべく起りし今日の生理学が《霊の身体》を説明しうるはずがない。我らはただ新約聖書なかの僅少なる暗示を握るのみ。『こう聖書に書かれている<第一の人間、アダムは生きたものとされた>[創世記二:七]。<最後のアダムは《生命を与える霊》とされた>」[「この「生命を与える・ゾーオーポイエオー」の主語は神のみをとる特別の用語。「命を与える」は「新しい・復活の生命を与える」という意味である。ロマ四:一七「死人を生かす方」、八:一一「(神は)あなたがたの死ぬべき体を生かすであろう」。この「死ぬべき体・ソーマ」は「肉・サルクス」とほどんと同義語である。]。
 「四五~四九節。『第一の人間は地から出た地上的なものであり、第二の人間・キリストは天から来た。地上的なものが地上的なものの性質をもつように、天的なものは天的なものの性質をもつ。また私たちが地上的なものの形をとったように、私たちは天的なもの形をとるであろう』」。
 「我らの現在の肉体がアダムの肉体に似たると同じ程度において、我らの未来の形はまた復活のキリストに似たるものであるに相違ない。ゆえにキリストの復活体に関する聖書の記事は、キリスト者の霊体の実質を説明すべき最良の資料である」。
 そして藤井はいう、昇天後のイエス、すなわちパウロがダマスコ途上で昼の日よりも強い光としてみたイエス(行伝九章)、ヨハネ黙示録のヨハネエーゲ海の小さな島パトモス島で、七つの金の燭台の間にいますのを見たその姿こそ[黙示録一:一二以下]「我らが未来の姿の典型であろう」と。言い換えると、永遠の世におけるキリスト者の霊的生活を完全に実現せしむべき「不朽にして強健にして光栄ある機関」と。
 そしてこのような「機関・霊の体」は、そこでの生活が「完全にしてかつ有効な《活動的生活》」に不可欠のものだという。したがって「来世は楽しく静かなる永違の安息の世でなくてはならぬ」「天国の生活といえば、清き岸辺に親しき者と声をあわせて讚美歌を歌い続けるような生活」との見解は、誤解である。藤井によれぱ、来世でこそ、自分の利益のためではない活動、ある目的を達成するための手段として働くのではないような活動、愛のためにその身を献げて他の人に仕えること、つまり活動そのものが目的であり、歓喜であり満足であり、幸いである活動が実現される。
 「休息」は活動の停止による疲労困憊の治療であり、安息の一部にすぎない。「安息」の主要な要素は力より力に進む純なる活動にある。「この世の活動については休息、しかしながら神への奉仕については没頭、かくのごときが真の安息である。…来世においては我らはこの世的の活動より休息するであろう。しかしながら来世生活の主たる要素は休息ではない。活動である。神のためにする没頭的活動、わが思想と行動との全部を名残りもなく直接に神に献げて行なう不断の活動、それが来世におけるわれらの生活である」。 これと関連して、藤井は「天職」はキリスト者の死後においても続行される、と説く。「我らが神から授けられた天職の遂行は、死と共に終らない。天のパラダイスまで我らはそれを携えていく。あすこへいってから悦びをもってそれを継続する」。その聖書的な根拠として藤井は黙示録一四章をあげた。
 「また私は天からの声が言うのを聞いた『書け、今から後、主にあって死ぬ死者たちは幸いだ』。霊は『しかり』と言う。『彼らはその労苦から解放されて憩うであろう。彼らの業は彼らについて行くのだから』」(佐竹訳)。
 藤井は述べる、彼らの「労役」(kopon=煩労、苦痛、悲嘆)は墓の入り口で行きどまる。主にある死者はこれを止めてやすむ。しかしその「業」(erga=事業、活動、行為)は彼らに随うのだ、墓を超えてどこまでも死者についてゆくのだ。…この世において我らの経験する苦しみはみな除かれて、あすこでは活動即歓楽だ、行為即安息だ。詩人、学者、芸術家、その他一切の事業が、形こそ変えるが、各自の性質をもってさらに祝福されながら天の世界で限りなく継続される。それだから「今より後、主にありて死ぬる死者は幸福なのだ」。ただ労役を休むからばかりではない、業が彼らに随うからだ。召されし者の幸福は主のもとにおいて彼のみ顔を見ながらその天職を遂行しうることにある。
 「聖書がギリシャ哲学の如く霊魂の不減について語らずして、くすしき未来の身体を説くはさらに大なる恩恵を意味する。身体問題は霊魂の完全なる活動の問題である、すなわち霊的生活完成の問題である。この一事の確かめらるるありてキリスト者の前途にたぐいなくさいわいなる希望が輝きわたる」。  続