建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(13) 実存の変貌ー2/2

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(13) 実存の変貌ー2/2

 

 また他者の強さを正当に認め、見習うようになる。さらに「自制心」が身につく。吉報にはも喜ばず、不幸にも動じなくなる。ーーこのあたりは使徒パウロの「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望をつくり出す」(ロマ五章)を想起させる。
 「以前はひからびていたあなたの魂が苦悩を体験して潤うのである。…まだ同胞を愛するようになっていなくても、自分に近しい者は、自由を奪われたあなたの周囲にいる精神的に近しい者は愛するようになる。われわれの中の多くの者が認めていることだが、ほかならぬこの自由を奪われている時に、われわれは初めて真の友情を知つたのである」。このあたりで彼は自分のこれまでの生活をふり返り、見直した。これはドストエフスキーの場合とよく似ている。
 確かに自分は無実で投獄された。国家の前では、法律の前では、自分は後悔することは何もない。だが良心の前ではどうか、他の人々の前ではどうか… 。
ソルジェニーツィンは収容所の外科の病室に横たわって時、囚人の医師コルンフェリドと二人きりで語り合う機会をもつことができた。この医師は、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人で、そのきっかけはある老人の囚人仲間のおかげであったという。トルストイの「戦争と平和」の主人公ピエールが、ナポレオン軍の捕虜仲間、敬虔な農夫のプラトン・カタラーエフと出会って強烈な影響をうけたのと同様に。医師は改宗のいきさつを話した後にこう語った、
 「この地上の生活では《どんな罰も理由なく下されることはない》と私は確信するようになりましたよ。そりやわれわれの犯した悪とは一見無関係にその罰が下るように見えることもありますがね。しかし自分の人生を顧みて深く考えてみると、必ず罰の対象となった罪を見いだすことができるのです」。この言葉を聞いて彼は「思わずぎくりと身を震わせた」という。
 医師の見方は、むろん銃殺されたり残酷な罰を受けた人々に対する当局のやりかたを正当化するものでは断じてない。他方では処罰された人々の罪責を明らかにするものでも決してない。むしろ「罪のない人こそ、誰よりも処罰されているのだ」。
 「この医師の言葉には、とにかく何か刺すようなものがあり、私自身としてはそれにまったく賛成である。多くの人もそれに賛成するであろう。監禁生活が七年目になると、私は自分の半生を振り返ってみて、何のために自分はこんな罰をーー監獄とおまけに悪性腫瘍(ガン)までーー受けているかを了解した」(「群島」第四部第一章「向上」)。
 ここでの「七年目の監獄生活」とは、政治囚のみの特別収容所にいた時期、彼が三四才のころと思われる。
 ソルジェニーツィンは病床にあった時に一つの詩を書いた。それはいわば彼のクレドー(信仰告自)とも呼べるものである。

「ああ、いつの間に私はきれいさっばり
 善意の種子を浪費してしまったのか
 私とて少年時代は《あなたの》教会の
 明るい歌声の中で過ごしてきたのに!

 難解な書物のきらめく記述は
 高慢な私の頭脳をつらぬきながら
 世界の神秘をあかし
 この世の運命を蝋のごとく自由に曲げるかと思われた

 血潮は沸き立ちその渦という渦は
 私の前で色とりどりに輝いてみえた
 やがて 轟音もたてず わが胸の中で
 信仰の城塞は静かに崩れた

 しかし生と死の間をさまよい
 転びつつその端にしがみつきながら
 私は感謝の念に胸を震わせてすぎし日々を見つめている

 わが人生の曲折の隅々を照らしたのは
 おのれの理解や希望でなく、
 《至高の意味》の穩やかな輝きなのだ
 それが明らかになったのは後のことだけれど

 そして今や私に返された器で
 生ける水を汲み上げながら
 宇宙の神よ!私は信じている!
 あなたを拒んだ私のそばにあなたが存在したことを」

 ソルジェニーツィンキリスト者であったかどうかは、この詩からは必ずしも明らかではない。ドストエフスキーの作品に印象的に登場している、キリストという用語は一言も言及されていない。紀元後四世紀の「使徒信条」をめやすにすれば、ソルジェ二ーツインの詩における「神」は汎神論的であり、かつあまりにユニテリアン的(イエスを排除して唯一の神のみを信じる立場)である。しかしながら彼がソ連の世界観、哲学から転身して一度は「崩れた信仰の城塞」を立てなおして「信仰」の、宗教の世界に帰ったことだけは確認できる。彼は宗教についてこう語っている。
 「善悪を分ける境界線が通っているのは、国家の間でも、階級の間でも、政党の問でもなく、一人一人の心の中、すべての人々の心の中なのである。…それは悪につかった心の中でも、善の小さな根拠地を囲んでいるし、最も善良な心の中にも、根絶されない悪の住みかがあるのだ。それ以来私は世界のあらゆる宗教の真理を理解した。それらの宗教は人間の中にある悪と闘っているのだ。悪をこの世から追放することはできないが、人間の一人の一人の中でその領域を狭めることはできるのだ」(「列島」第四部「魂と有刺鉄線」第一章「向上」)。「イワン・デニソヴィチの一日」にほんのちょうとだけ出てくる、政治囚アリョーシャはプロテスタントのバプテスト派の信者でその信仰のゆえにぶちこまれたのだが、「自由が何です?あなたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんです。ここにいれば、魂について考える時があるじゃありませんか!」と語っている。「収容所生活」という刑罰がまったくダメージとはなっていないで、むしろこの拘禁生活を超越していることが、この発言からわかる。国家権力は決してこういう信仰者を撲減はできない。神の言葉よりも、国家権力の言葉を受け入れる宗教指導者層は、国家秩序の崩壊とともに、消滅してしまうだろう。先のアリーシャはロシア正教の僧らが「ぶちこまれないのはしっかりした信仰をもっていないからですよ」と語っている。他方国家の迫害、弾圧にも屈することのない信仰者集団は、いわば「教会の種」の存在であって「その種、その岩の上に」新しい教会、信仰共同体が芽生えるはずである。
 彼はじっくり自己吟味したのちに、自分たちを苦しめている当局側の人々と同じ弱さが自分の中にあるのを発見した。国家の高級官僚たちの無神経さや死刑執行人らの残酷さについて聞かされるたびに「私は大尉の肩章をつけていた自分のこと、戦火に包まれていた東プロイセンを進撃していた私の中隊のことを思い出して、こう自分に言い聞かせた『それにして《われわれ》がそれよりましだったといえるのか』」。そしてついに彼は驚くべき結論を引き出した、
 「監獄よ、おまえに祝福あれ!私の人生におまえがあったことを感謝する!」

 私はこの言葉を読んで、第二イザヤの言葉を想起した。彼は前五四〇年ころ捕囚の地バビロニアで捕囚の民にこう語った、
「見よ、私(神)はあなたを練った。しかし銀のようにではなく、
 むしろ苦しみの炉であなたを試みた」(イザヤ四八:10)
 
 「銀を練る」とは銀の精錬のこと、神は捕囚という「苦しみの炉」をその民に課すことによって民を鍛練なさったといっている。民はこの苦しみをくぐりぬけて「鍛えられ」不純物を取り除き、精錬、すなわち実存の変貌をとげていく。パウロはこの関連を別の用語で語った、
 「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望をつくり出すことを私たちは知つているからだ」(ロマ五:三~1四)。
 連載、「囚われ人の希望」完