建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第二章 安中歴史探訪 湯浅治郎の活動ー2

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

 

湯浅治郎の活動

 ここでは湯浅吉郎編「湯浅治郎」(一九三二・昭和七年、非売品、吉郎は治郎の次男、長男一郎が画家になったため次男の吉郎が家督を相続した)を唯一の手がかりにして、湯浅治郎の活動をみてみたい。
 湯浅治郎(一八五〇~一九三二)は、群馬県の安中町の醤油・味噌醸造販売業の家有田屋に生まれた。
 一三才のころ数年間、町から三里離れた新井村の岩井友之丞から漢学と数学の手ほどきをうけた。一五才で家業を継ぎ、一七才で結婚した。二二才の時「便覧会」という私立の図書館を建て、無料で町の老人や青年に新聞、雑誌、図書などを閲覧させた。これは日本における最初の図書館の一つであった(建物はその後焼失したが現在碑が建てられている。湯浅吉郎編「湯浅治郎」一九三二。この追悼集は次男の湯浅吉郎が略伝を三五ページにわたってしるし、柏木義円が二五ページにわたって略伝をしるし、他に追悼文を、小崎弘道、同志社教授・浮田和民、徳富蘇峰、海老名弾正、安部磯雄などが寄せている)。
 湯浅治郎が二四才の時、アメリカに渡っていた新島襄が帰国し、故郷の安中に滞在していろいろな講演会を開いた。その折り、キリスト教についても伝道した(新島が米国で学んだのは神学である)。多くの人がこれを聞いたが、そのうち「この教えを信ずべく志したのが、湯浅、千木良、森本など七名であった」。三年後の夏、湯浅が「聖書を教えてもらいたい」との要望を同志社新島襄に伝えたところ、同志社から若い牧師、海老名弾正が聖書の指導にきた(一八七七・明治一〇年)。
 かくして二八才の時、便覧会において、新島襄から男女三〇名が洗礼を受け、安中教会が創立され(七八・明治一一年三月)、海老名弾正が牧師に就任した。「湯浅氏がキリスト教信者になられた動機は、一は進歩思想、一は厳格なる品行に感激しまた共鳴された所に存すると思います」(海老名弾正の追悼文)。
 「この群馬県の伝道は、ことに安中は一番最初の草分であって、直接外国宣教師の力を借りずに、また各種財政上の補助を受けないで純日本人でやったというのは、群馬県ではいうまでもない、おそらくは日本においても安中であったろう。どうして安中はそういうことができたかというと、それは湯浅治郎氏が一身に費用を負担したからであります。それから明治一一年の初春に安中教会が設立せられたが、教会維持については湯浅氏がほどんと全部負担しておられたように見受けられた。これに加えて教会所は湯浅氏の所有便覧所となっていた」(海老名)。湯浅と同時に洗礼を受けた人々は、湯浅とその妻、茂登子ともう一人のほか、二七名すべてが士族出身者かその家族であったから、家禄没収で農民となった士族はきわめて生活が貧しかった。そこで湯浅は教会員の生活を助けるために養蚕所を建てて、自分の桑を提供して、共同で三年間養蚕をやった。おのおのその働きは異なっても、その利益は等分にわけたという。

自由民権運動
 当時自由民権の思想は群馬県にも大きな影響を与えた。「明治十五年三月、県会議員の有志、湯浅治郎、中島裕八、野村藤太、竹内鼎三、らが発起人となり、民権の拡張、地租の軽減、自由の気運の発達を目的として、前橋町に上毛協和会を組織し、県下の有志を糾合した」(「群馬県史」、武田清子「人間観の相克」一九五九)。湯浅自身指導的な民権論者であった。湯浅は三一才の時県会議員に選ばれ(八〇・明治一四年~九〇・明治二三年)この間四回議長に任じられた。
 自由民権運動の立場からみた湯浅の一つの重要な活動は、県会における民権運動の実現、地方自治制度確立であった。湯浅はすでに八〇・明治一三年に郡長の民選制度の設立を建議した。これは結果的には内務卿の通達で実現しなかった(武田清子、前掲書)。
 続いて八二・明治一五年、湯浅らは「地方官民選の建議」を出した。「今の地方官たる中央政府の特命をもって職を奉ずる者なるゆえ、全く人民と痒痛休威を同うせず。どうもすれば官威を借りて人民を圧するなどの弊万これなきを保すあらざるなり」。長官・知事が県民の民心にそむく時には、過害が起こる、人民が将来抑圧を受ける不幸を免れるために、県令(知事)、書記官を従来の中央政府からの派遣、官選を改めて、県内の「公選」にすべきだ、その代わり地方官吏の俸給はすべて地方税をもって支出してもよい、との建議案であった。反対意見に対して、湯浅は「我々をして撰ばしめれば、必ず我々が望みに適する所の人を挙げるを得ん。すでに望みに適する所の人を得ば、これ一県人民の幸福ならずや。官撰はこれと異なりその利害得失多言を要せずして明けし」と反論した(武田、前掲書)。しかし票決は十一対十九で廃案になった。地方官の民選の構想は当時どの府県にも類例のない画期的なものであった。大多数の民権運動が、藩閥中央政府による各地方に対する官僚支配を飛びこえて、直接政府に憲法の制定と国会議員の民選を要請するものであったのに対して、湯浅らの闘いは、藩閥政府による官僚的な地方支配にその時点で真っ向から対抗して、県民自らが地方自治を確立、形成しようとするものであった。後にふれるように、廃娼問題において県会は、廃娼の決議をないがしろにした、政府派遣の知事を免職に追い込んでいる。

廃娼運動
 八二・明治一五年、群馬県会開会中、湯浅は「娼妓そのものを全廃するを可とすると提唱せられ、四五名の議員中賛否不明の者二名のほか全部賛成で可決。…県下の貸座敷業者はこれを聞いて大いに驚き、その翌日四五十名相率いて、湯浅翁の旅館藤野屋に押懸けた。野村藤太、宮口二郎、中島裕八、斉藤壽雄(いずれもキリスト者議員で、野村は伊勢崎教会、宮口は安中教会、斉藤は甘楽教会)の四氏は次の間におられたが、湯浅翁一人出で接見せられ、彼らは『今回の県会は娼妓および貸座敷を廃止したる由、はなはだ不都合千万である。もし娼妓が悪るくば買わぬがよい、われわれ永年該業を営みいた者が突然廃止されては百余戸の者が生活を失い、ひいては他の商売の者の死活にも関する大事である、是非この決議は取消されたい』と肉迫した。翁は平然として『娼妓貸座敷は昔より飯盛といい、女郎ともいい宿駅問屋場にて人足の足留策として要望せられ、御上で黙許されたのみである。今や諸大名封土奉還いずれも束京在住となり、宿駅の人馬はすべて相待雇となりて、また問屋場の必要はない。したがってまた娼妓在置の要もなく、かえって風教上有害無益だから、これが廃止を建議したのである。諸君にしても有益無害と認むるならば、諸君またこれを建議するは諸君の自由である。自分らの建議を取消すことは断然できぬ』といい放ちたれば、背後に立ちいる多勢中『湯浅を引きずり出してやれ』などと叫ぶ者もあり。翁自若として曰く『前にいる人々は陳情すると云い、後に立つ者は暴言を吐く、いずれが本当の態度であるか、それによって当方の考えもある』と。お隣が警察署であったから、間もなく一同は解散させられた。かくてその(明治十六年)四月県令第二十七号をもって明治二十一年六月を限り貸座敷業および娼妓稼業一切を廃止すると布達された。当時翁三十三才」(柏木義円の追悼文、前掲書)。
 この廃娼運動について、住谷天来はこう語った「わが群馬県会においては廃娼問題が起こって盛んに弁難討論中であった。我々もまたそれに共鳴して県下の各青年を糾合し、上毛青年聯合会なるものを組織し、大いに廃娼論を絶叫した。我々青年も一簾の戦士として握飯と草履とで、勇ましく妓楼の所在地を駆け廻りて熱心に宣伝したのであった。その時最も力を入れて我々を鼓舞激励し我々の運動を援助してくれたのは(県会)議長湯浅治郎氏であった。またその同志は宮口二郎、高津仲二郎、野村藤太郎、中島祐八、木暮武太夫、竹内鼎三の諸氏であって、何れも健実なる政治家であった。しこうして我々と同一の歩調を取っておられたから、非常に愉快で、その有様たるや全く意気衝天の勢いであった。さすがに十数年の懸案であった娼妓存廃の大激論も大勝利を博した」(湯浅吉郎、前掲書)。
 その後の経過について、安部磯雄は次のように語っている。手始めに八三・明治十六年に伊香保の貸座敷が廃止された(イギリスが廃娼令で貸座敷を全廃したのは一八八六年で、群馬県のほうが三年早かった)。しかしながら、全県下の貸座敷の廃止が断行される、明治二十一年六月が近づいてくると、貸座敷業者の巻返し的な暗躍が激しさを増した。当時の県知事、佐藤輿三は五月に、貸座敷営業廃止は当分延期す、という命令を発して貸座敷業者を擁護しようとした。県会議員や廃娼運動の側がこれを承認するはずがなかった。明治二十三年、当時議長であった湯浅は県会で再び将来娼妓貸座敷廃止令を変更してはならないとの決議をあげた。そこで知事は廃娼運動の特に強い、新町、安中、妙義の三つの町の廃娼を断行したがその外の町は手つかずにした。県議会が開かれ、議員らは知事の不当な行為を詰問した。知事はついに県会を解散し県会議員選挙となった。その結果廃娼に賛成した三五名のうち、三三名が当選して知事は追いつめられた。そこで県会は県議斉藤壽雄を上京させて、知事の不当な行動を大臣に報告させた。そこで中央政府は佐藤知事を免職にした。かくして最初の県会の決議から五年遅れて、明治二六年一二月、群馬県全部の貸座敷が廃止された(安部磯雄の追悼文、前掲書。安部磯雄は、一八六五~一九四九、同志社に学び、新島襄より受洗、渡米して社会主義を学び、後にユニテリアンとなる。明治三四年社会民主党を結成し、以後社会民主主義者として行動)。
 湯浅が廃娼運動に力を入れた動機の一つは、父親が遊廓かよいをし続けて、お金がなくなると年若い次郎に金子を届けさせた。湯浅はこのお使いが大嫌いであったという。母の悲しい姿も目にしたであろう。湯浅がキリスト教に入った動機の一つも「性道徳への厳しい倫理観」にあった(海老名弾正指摘。自由民権運動板垣退助は、土佐の民権主義者からキリスト教への入信を勧められたが、キリスト教が性道徳に厳しく遊廓遊びもできなくなると言って入信しなかった、と植村正久が述べている)。
 湯浅は最初の民選の国会議員に選ばれて(九〇・明治二三年)、二年間国会議員をつとめた。しかし予算案を一割削減する提議をしたが採用されず、また特に国家財政に関して剰余金は必ず国債の償還に充当するべきだとの案を提議したが、国家予算の問題には全く暗い当時の議員には理解されず、この案も採用されなかったという。議員をやめた以後湯浅は、新島襄の求めで、同志社の財政たて直しに努めた。さらに警醒社という出版社を起こし(明治一六年)、植村正久の「真理一班」(明治一七年、日本人最初の神学文献)、小崎弘道の「政教新論」(明治一九年、欧米における国家と宗教、政教分離について論じている)、徳富蘇峰の「将来の日本」(同年)、蘇峰の雑誌「国民の友」(明治二〇年)などを出版した。単に資金の出資ばかりでなく、新本をリアカーに乗せて、書店に配達したといわれている。
 同じ組合教会のリーダーの一人小崎弘道は追悼文の中で、湯浅について「善き忠実な僕」(マタイ二五:二一)と語ったが、全く同感である。武士階級の出でない湯浅は異色の信仰者であった。
 吉野作造は、組合教会の朝鮮伝道部の植民地伝道に対する批判の「三羽からす」として、吉野自身と柏木義円に加えて湯浅治郎を上げた(「著作集」)。朝鮮総督府の機密費からの寄付で伝道するやり方をいさぎよしとしない湯浅が自分のお金で全額返金した事実を、吉野がきちんとふまえていたからである。
 一九九八年に大田愛人牧師の湯浅治郎研究「上州安中有田屋」が出版された。湯浅はいわゆる著述を残していないのでこの研究は労作であるが、通読し終わって特につけ加える部分はないと考えた。