建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

自由民権運動とキリスト教1 ガラテア5:1

1996-25-2(1996/10/20)

自由民権運動キリスト教 1    ガラテア5:1

 自由民権運動とは、 1874・明治7年、 土佐の板垣退助、 後藤象二郎らが愛国公党を組織して「民選議員設立建白書」を政府に提出したことに始まる。明治政府は、周知のように一部の公家(三条実美岩倉具視)、薩長、土肥の「藩閥政府」であって、民選の政府ではなかった。板垣らはこれに対して憲法の制定と民選による国会の開催(議会制度)を要求したものであった。自由民権運動の全体像を把握することは大変なことであるが、これは「十年間にわたり数百万国民を巻き込んだ大運動であった」(色川大吉「明治精神史」1964)。その特徴は(一)立憲議会制度を求める「士族」を中心とした政治運動の点(二)各地の「豪農、一般農民」を中心とした「地租改正」反対、その軽減を求め、かつ政府に民選の国会設立求める農民運動の点(明治7、8年に地租改正反対の農民の暴動が、秋田、高知、福岡、島根などで多発、36件)。(三)憲法制定と国会開設を目指す「都市ブルジュア・インテリ」の政治運動などの側面があった。
 運動の起こりは高知、土佐であったといえる。土佐は板垣、後藤象二郎の「立志社」が74・明治7年に設立された。明治7から11年にかけて全国各地に地租改正反対の農民騒動が起きた。西南戦争(77・明治10年)のころ、土佐では二千人を超す政治演説会が数十回も行なわれて、民権自由論が人民に浸透しいったという(色川、「近代国家の出発」)。土佐の士族民権家の間では好んで西欧の政治的な翻訳文献、スペンサーの「社会平権論」、ミルの「自由論」「代議政体論」、スミスの「国富論」、ルソーの「民約論」「フランス革命史」などが立志社に集合して輪読された。当時の土佐は民権運動のセンターの観があって、福島の石陽社の河野広中、石川の自郷社の「草莽雑誌」の主筆、杉田定一らの民権家も滞在した。さらに植木枝盛、栗原亮一、安岡道太郎、杉田定一が山陽、山陰、紀伊、九州に遊説に出た。そして愛国党の再建が四国、九州、中国など二一社によって決議され(78・明治11年)、翌念春、この二回大会が開かれて士族民権運動は各地で盛り上がりをみせた。高松の立志社、金沢の精義社、松江の笠津社などの演説会が盛んであった。三回大会では(80・明治12年、大阪)には、民権運動のありかたへの討議が起こり、また国会開設の決議を出した。
 のちにキリスト教自由民権運動との関わりについて取り上げるが、民権論者の第一グループである士族民権論者の中には、始めからキリスト者の自覚をもって運動した者はいない。運動の過程の中でキリスト者になった者のタイプは土佐の片岡健吉らがいる。これに対して、第二のグループの民権論者、豪農にはかなりのキリスト者がいる。群馬の安中町の湯浅治郎などもそうである(後述)。信教の自由が社会的に認められていない状況のもとで、プロテスタントキリスト者らは抵抗し、節を曲げず、あるいは信教の自由を要求し闘うというのが欧米の教会史にみられる教訓である。パウロの言葉にある「自由」とは罪からの解放のみならず、民権論者が主張した「信教の自由」も含まれている。