建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

維新政府の宗教政策(明治維新とキリスト教3)

1996-25(1996/10/20)

明治維新キリスト教 3  ガラテヤ5:1

 1875・明治8年、 教部省は各宗(仏教、後の教派神道)の官長に対して「信教の自由を保障する旨の口達」を発した。「一教法家は宗教の自由を得て行政上の保護を受くる以上は、よく朝旨の所在を認め、ただに政治の妨害とならざるに注意するのみならず、つとめてこの人民を善誘し、治下を翼賛するに至るべき、これ教法家の政府に報ずる義務と謂うべし」(村上、前掲書)。この政策は、教院廃止によって一方では政府の神道化政策・国民教化政策の挫折を認めて軌道修正したもので、建前として信教の自由を認めたものであった。しかし他方その信教の自由は国民の権利(森有礼の主張した天賦人権論のような)ではなく、政府による「恩賜的な保護」であって、保護を受ける以上、宗教家らが天皇と神社の宗教的権威に従属し、かつ天皇と政府への全面的な奉仕が(「朝旨の所在を認め」「治下を翼賛する」)、当然の義務とされた。翌年、教部省は廃止され内務省に「社寺局」が設置された。しかしこの時点ではいまだ神道と他の宗派は同類の扱いであった。キリスト教にはこの「口達」は発せられなかったのは、いまだ一つの宗教団体と承認されていなかった事実を示す。さて神社神道は全神社を続括する中央機関として、東京の有楽町に「神社事務局」を設立して巻返しをはかった(75・明治8年)。
 政府の神道国教化政策は、神社神道の教義、神社への崇敬を「宗教として」全国民に強制すると、どうしても仏教などの信教の自由と矛盾、衝突することを教訓にして、この信教の自由と「矛盾しない形態を構築する」方向を企てた。そこで政府は「神社神道が宗教ではない」、一般の宗教と次元を異にする「神社が超宗教とする」形態をあみだそうとした。それには二つの方策があった。一つは宗教活動の面で、神社神道の活動を「国家祭祀(儀式)」にのみ限定し、宗教活動から分離させること。 いわゆる「祭祀と宗教の分離」策である。もう一つは、宗派のありようで、多数の神道系教派から「宗教活動する神道系教派と神社神道とを教派的に分離すること」であった。
 神社神道の本宗、伊勢神宮は、すでに71・明治4年から御師(参拝者に暦を頒布する人)を廃止し、祈祷(これは明確な宗教活動となる)を停止していた。大麻(神札)の頒布も教化機関の神宮教院(後に独立した神宮教会)に取り扱わせ、神宮としては「国家祭祀」のみを執行する体制に整備した。
 自由民権運動の直中、82・明治15年、 内務省神道系教派の教導職が主神を祀り、信者の葬儀の執行などのために神殿を設立することを認可した。この措置は神道系教派と神社神道との分離に道を開いた。さらよ内務省は同年「神官は、教導職の兼務を廃し、葬儀に関係せざるものとす」との通達を出した。教導職はむろんのこと「宗教的な」国民教化活動の職務であり、かつ葬儀(神葬)も明らかに宗教的活動に当たるので、それらの明白な「宗教活動」から神官を切り・離すことによって、神官らを神社にあって祭祀に専念させ、「祭祀と宗教活動」との明確な分離を際立たせたのだ。
 もう一つの動きとしては、同じく82・明治15年、内務省は、すでに神道事務局から独立を承認されていた神道黒住派、修成派のほかに、神宮教会(明治32年には解散し、財団法人神宮奉斎会を設立)、出雲大社教会(管長千家尊富、大国主神を主神とする出雲派は伊勢神宮の大教正田中頼庸、伊勢派と祭神論争に破れて宗教団体の道をたどった)、扶桑教会、実行教会、本教大成教会、神習教会など六派の独立を認可していった事態である。そして明治末年までに、禊教、御岳教、金光教天理教、などの独立を認めた。これらの独立した教派がいわゆる「教派神道一三派」 である。
 これまで私たちは、政府の神道国教化政策に焦点を当てて、それに対する宗教界の反応や対応、抵抗などを村上重良氏の「天皇制国家と宗教」に導かれてみてきた。村上氏以外のものには政府の宗教政策について詳しく論述したもはあまりなく、岩波書店の「歴史年表」にはしるされているのに、それを扱うものは村上氏のものぐらいで、明治時代の歴史的な研究、キリスト教の側の研究においても、ほどんと出てこない。色川大吉の「近代国家の出発・日本の歴史 二一」(1974)、隅谷三喜男の「近代日本の形成とキリスト教」(1961)にしても。色川、隅谷両氏は明治十年代の自由民権運動に注目して論述しているが、その直中で起きた、重大このうえない政府の「神道国教化、国家神道体制の構築の過程」を見過しているようだ。山路愛山の「日本教会史論」にしてもである。隅谷三喜男の前掲書はすぐれた研究であるが、その中で、隅谷氏は「六合雑誌(80・明治13年秋に植村正久、小崎弘道らが発刊した雑誌、当時のプロテスタント信者数はおよそ三千人)の内容を紹介している。明治14年末になると、政府は神道を国教化するという風説が新聞にでた。それに対して「六合雑誌」の記事はこうあった、「この頃世上の風説には今度政府において神道を国教に定められ、仏教耶蘇教をばすべて一般に外教の取り扱いとなし、盛んに高天の原の説を主張して、上は皇室の輔翼となし、下は民権自由の防御とせられたき旨、その筋の人々より奏上せしに、西郷(従道)、松方(正義)両参議をはじめその他これを賛成する方々ありて、多分採用せらるるならんとの事なり」。隅谷氏はこれについてコメントしている。「明治政府は…国民精神の確立対策においても、神道による正教一致はもはや支持しえられないことを洞察し、むしろより『合理主義』的儒教倫理を、絶対王政の精神的支柱とした」(前掲書)。そして、先の内務省通達にある、神官による教導職兼務、葬儀執行を禁じた点をあげている。これは隅谷氏の読み誤りであると思う。 「神官の宗教活動禁止」は、もつもっと深い意味、国家神道の構築の重大な布石であったからだ。