建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶーキリスト者の復活への希望-1 キリスト者の死

第七章 キリスト者の復活への希望

キリスト者の死
 聖書は人間の死を二つの視点からみている。一つは、人間は罪を犯したからその報いとして死ぬ、呪いとしての死という見解。もう一つは、被造物存在のもつ有限性、限りある生命のゆえに、死ぬ、自然的な死という見解である。
 
 旧約聖書のイザヤ三八・一八以下のヒゼキヤ(前七〇〇年ころ、南王国ユダの王)の祈りでは、死者が神との絆が断ち切られている、と述べられている。
 「陰府はあなたを讚美せず、死はあなたをほめたたえない。墓にくだる者はあなたの真実を待ち望まない。生ける者、生ける者のみ、今の私のようにあなたをたたえる」(関根正雄訳)。
 ここでは死者は神との関係を喪失した存在と述べられている。つまり死は神との、他の人々、家族、友人たちや仲間との、自分の暮らしている世間、自然環境、あらゆるものとの関係の喪失を意味する(ユンゲル「死」蓮見和男訳)。詩六・五、一一五・七「死においてあなたを覚えることはなく、誰が陰府であなたを讃美しうるであろうか」、詩八八・一二「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるであろうか」。
 創世記における人類の原初史(一~一一章)は、理想的な神関係が劇的な状況において破壤されていくという視点で描かれた(フォン・ラート「旧約聖書神学」一巻)。
 アダムをとおして罪が人類に侵入してきた。「一人の人[アダム]をとおして罪がこの世に入った」(ロマ五・一二)。この罪の侵入は、アダムが「善悪を知る木からは[その実を]食べてはならない」(創世二・一七)との神の戒めを破って、その実を取ったことから始まった(同三・六)という。
 「神は知識の領域においては、神と人間との間に限界をもうけておく必要があると考えられた。『善悪を知る木』の、『善と悪』は、ここでは一方的に道徳的意味ではなく、『あらゆること』の意味で理解すべきだからだ。したがって人間は《自分の被造物としての限界を超えて神のような生命を得よう、神のようになろうと試みること》によって、神に対する服従という素朴さから抜け出してしまったのだ。そうすることによって、人間は神に近い楽園での生活を棒にふってしまった。彼に残されたのは、労苦の中の生活、疲労困憊させる謎に満ちた生活、悪の力との希望なき戦いに巻きこまれ、最後には無条件に死に陥るのだ」(フォン・ラート、前掲書、強調引用者)。
 旧約聖書では民数記二七・三のみがこう述べている「コラは自分の罪のゆえに死んだ」と(コラは荒野の放浪の時モーセに背いた人物)。
 パウロは「罪と死との関連」について繰り返し述べている。「またアダムの罪をとおして死がこの世に入り込んできたように、死はすべての人間に拡がった。すべての人が罪を犯したからだ」(ロマ五・一二以下)。パウロは後期ユダヤ教のアダム論をふまえつつ、それとは別の結論を引き出した。人間はアダムの墮落と罪責のゆえに死にみまわれるのではなく、むしろ個々人が犯した自分の罪のゆえに、この罪が自分に死をつむぎ出すゆえに死ぬのだ、と。パウロは人間の死の原因を、病気、事故、老衰、すなわち自然的なものとはみていない。彼はこう結論づける「罪の報いは死である」(ロマ六・二三)。人間は罪を犯したから、その報いとして死ぬのだと。罪は人間に関係の喪失をもたらす「死とは人をこのような関係喪失へと追いやることの総計である」(ユンゲル「死」)。
 他方旧約聖書は例外的に「幸せな死を迎えた少数者」についても述べている。「アブラハムは善き老年期にいたり、年老いて生命が満ち、息を引き取り、死んだ」(創世二五・八、ラート訳)。このように語られたのは、他にイサク(三五・二九)、ヨブ(ヨブ四二・一八)など少数者にすぎない。これは「天寿をまっとうする」という表現が妥当する「自然的な死」の姿である。「死ぬべき人間の存在から非存在への移行は『最後の敵』[死]をとおして征服されることを意味するのではなく、むしろその敵[死]が滅亡させられた後に、完全にして究極的な神との出会いを意味し、永遠に神と向き合った存在、最高度に積極的な神との共なる生を意味する」(バルト「教会教義学」III/2、四七節、終わる時間、吉永訳参照)。

「第二の死」からの解放
 すべての人間の地上的な生命はいつか終る。あえていえば「第一の死」である。しかしそれですべてが終るのではない。旧約のダニエル書は万人の死後の復活を説いているが、復活した人々を待ち構えているのは、救いではなく、むしろ審判・よりわけである。その審判をとおして永遠の生命に入る者と恥辱と永劫の罰に至る者にふりわけられる(ダニエル一二章)という。
 「第二の死」とは黙示録二・一一、二〇・六、一四、二一・八に出てくる用語、見解で「火の池」すなわち永遠の滅びを意味する概念である。「死者たちは書物の中に記されていることにより、彼らのわざに基づいて審かれた。…死と黄泉とは火の池に投げ込まれた[死自体の滅亡のこと]、また生命の書物に名をしるされてない者は火の池に投げこまれた。このものが第二の死である」(黙示録二〇・一二、一四、一五、佐竹明訳)。二一・八によれば、火の池に投じられるのは「臆病な者(神に対して全幅の信頼を欠いているために恐怖におそわれる人)、不忠実な者(死に至るまでの信仰への忠実さに欠ける者)、忌み嫌われた者(すなわち)殺人者、淫行者、魔術師、偶像礼拝者、およびすべての偽りもの」である。この第二の死は、死の中での死であるといえる。そして旧、新約聖書は人間を神に背く存在とみなし、人間の死を通常この「第二の死」の形態の中でみている。
 「<死の中での死>は、まさしく新約聖書の見解によれば《廃止される》ことが<ありうる>。それは偶然によるのでも人間の意のままになるものでもなく、むしろ神の途方もない介入に基づいている。その具体的な介入の形態が、イエス・キリストの死と復活である。『私の言葉を聞いて、私を遺わした方を信じる者は、永遠の生命をもち、審きを受けることがなく、むしろ死から生命へと移されている』(ヨハネ五・二四)。このような状態のもとで<第二の死>は廃止される。さらに<不自然な死からの>この解放は、明らかに<自然的な死に向けての>人間の解放<をも>意味している」(バルト、前掲書)。
 他方「被造物的生命の限界としての死」が存在する。この生命の限界としての死を受け入れない行動と関連して、ゴルヴィッツアーは創世記三・四の、蛇の誘惑の言葉、禁断の木の実を食べれば「神のように善悪を知るものとなる」についてこう述べている、「被造物は終りなきものではないし、時間的な意味で永遠のものでもない。神のようにありたいといった《終りなき存在への私たちの願望》は、私たちの被造物性に対する反乱である」 (ゴルヴィッツアー「曲がりくねった木-まっすぐな道」)。
 この「終りのある存在の死」について新約聖書は「眠りにつく」と表現している。「『眠りにつく』は、自然的な、キリスト者の死ぬこと、死んでいることを表現する新約聖書の特徴的な表現である」(バルト「教会教義学」III/2 四七節、終わる時)。「眠りにつく」という用語には次の箇所がある。復活顕現に出会った五〇〇人以上の兄弟たちのうち「数人が眠りについた」(第一コリント一五・六)、「キリストにあって眠りについた人々」(同一五・二〇)「イエスにあって眠りについた人々」(第一テサロニケ四・一四、いずれも亡き教会員たちのこと)「眠りについた人々」(同四・一三、第一コリント一一・三〇、亡き教会員たち)。またユダヤ人による石打ちで殉教したステパノも「眠りについた」とある(行伝七・六〇)、ダビデの死にも用いられた(行伝一三・三六)。第一世代のキリスト者たち「先祖たち」の死について「先祖たちは眠りについた」(第二ペテロ三・四)、ラザロの死「私たちの友ラザロが眠りについた」(ヨハネ一一・一一)など。
 「キリストへの希望にもとづいて、<自然的な死>に向かっての解放が存在するということは、人間の死自体は、被造物の生に属すもので、この者にとつて<必然的なもの>である。…イエスはその生命を愛することをなされなかった、まさしくそのことによって私たちの生命を滅びから救い出してくださったのであるから、私たちはイエスによって救い出された自分たちの生命の限界をつかんで離さないように招かれている。私たちは終りを持たなければならないよう、したがって私たちの希望をすべてイエスの上におくよう、命じられている」(バルト、前掲書)。