建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-2  内村鑑三・藤井武のキリスト者の復活論①

内村鑑三・藤井武のキリスト者の復活論

日本のキリスト者の場合の「キリスト者の復活」についての見解
 キリスト者は「使徒信条」(後二七〇年以後)を唱和するたびに、最後のくだり「我は、肉体のよみがえり、永違の生命を信ず」と唱えてきた。そして漠然とではあっても「自分たちの生命は死によって終るのではない」と考えてきた。しかし大部分のキリスト者は「キリストの復活」については信じていても、他方「自分たちの復活」についてはあまりリアルには受け取っていないようだ。これが《現代の》キリスト者の大きな特徴の一つとなっていると感じられる。自分の《老後》については、年金、健康、仕事、住居、介護制度のことなど、心を砕いても、死後のことは、いわば思考停止にしているようだ。
 八〇年ほど前、藤井武は日本における「来世観の希薄さ」について次のように述べた、
 「わが国にありてはことに《来世の観念が希薄である》。何ゆえに来世問題はかく現代において軽んぜらるのであるか。思うにその主要なる原因は、一方においてはこれを《近世の唯物主義の思想》に帰すべく、他方においては『永世』を[死後・来世の]時の問題として認めず、ただ質の問題としてのみ扱う[死を人生を充実させる契機とする見解]ところの一種の《哲学思想》にこれを求むべきであろう。わが国の現世主義はこれらの原因の他になお《儒教、武士道、および一派の仏教の感化》と、またある一派の仏教の伝えし浅薄なる来世観に対する反動とによりて醸成せられし、旧来の国民的性格に基づくところが多いと思う」(「沙漠はサフランの如く」一九二四、引用は適宜ひら仮名に変えた、以下同様、強調、引用者)。
 私たちは、「囚われ人の希望」であれ、旧約聖書におけるものであれ、その希望像がどのような特徴をもっているか(スペスー・クオ)を把握することは、むろん重要であるが、それだけでは不十分で《その希望によってその人はどのように生きたか、その希望はその人にどのように体験されたのか》(スペスー・クワェ)に焦点を当てることを不可欠だとみてきた。体験された希望「肉となった希望」(ゴルヴィッツアー) のポイントである。
 そこで「聖書はキリスト者の復活についてどのように述べているか」を問う前に、キリスト者の復活への希望が《日本のキリスト者においてどのように体験されたか》を取り上げたい。その場合、日本におけるキリスト者の先達らの例をみたい。「日本において」とは、欧米諸国のような「一見キリスト教的な生死観」によるのではなく、他の宗教、仏教、神道などの生死観や哲学思想の強い影響下にある国において(加藤周一「日本人の生死観」参照、正宗白鳥のケースも取り上げられている)という意味である。先達らの例として典型的なものを一、二あげれば十分で、網羅的に列挙する必要はないと考える。

内村鑑三の場合
 内村鑑三(一八六一~一九三〇)の娘ルツ子の葬儀と埋葬の折りの内村の行動の例をみたい。
 一九〇〇(明治四五)年一月一二日、娘ルツ子が一八歳で病死し、翌一三日その告別式が行なわれた。その式で内村は集まった人々にこう「謝辞」を述べた。
 「…彼女は既にこの世においてなすべき事をなし終りて父の国に帰ったのであります。彼女は最も幸福なる婦人であります。私どもは彼女のために喜びます。ゆえに今日のこの式を私どもは彼女の葬式と見なさないのであります。今日のこの式はこれルツ子の結婚式であります。今日はこれ黙示録に示してある所の小羊の婚姻の筵[むしろ]であります[黙示録二一・九「来なさい、小羊の妻なる花嫁を見せよう」]。ルツ子は今日潔くして光ある細布[ほそきぬ]即ち聖徒の義をきせられまして、キリストの所に嫁入りするのであります。ゆえに私どもは彼女の棺を蔽いまするに彼女の有する最上の衣類をもってしました。今日はこれルツ子の晴れの祝儀[いわい]の日であります。世には良縁を得たりとて喜ぶ親たちがあります。しかしながらいずれの良縁か天国にまさる良縁がありましょう。娘をキリストのところに嫁して彼女の両親は最も安心であります。私どもは今よりルツ子の身の上について何も心配する必要がないのであります。かかる次第でありますれば、皆様もどうぞ私どもについて御心配くださらぬよう、また眠りしルツ子の事について御歎きくださらぬよう、ひとえに願います」(鈴木範久「内村鑑三日録 八」一九九五、引用では原文の漢字を適宜ひら仮名に変えた)。
 ここには世の親のように若くして病死した娘の死を歎く親の姿はみられない。
 雑司ヶ谷の墓地で埋葬が行なわれた。埋葬の讚美歌、田島牧師の祈祷のあと、会衆の歌う讃美歌「千歳の岩よ我が身をかこめ…」のなかを、静かにルツ子の柩は穴の中におろされた。埋葬の時の出来事を、立ち合った矢内原忠雄はこう述べた。
 「まず御遺族が土をかけられる事になりました。先生は一握りの土をつかんだ手を高く上げられて、肝高[かんだか]い声でいきなり『ルツ子さん万歳』と叫ばれました。全身雷で打たれた様に、私は打ちすくめられてしまいました。『これはただごとではない。キリスト教を信ずるという事は生やさしい事ではないぞ、一生懸命のものだぞ』そう叩き込まれたその時の印象が、私に初めてキリスト教の入り口を示してくれたのです」(鈴木範久、前掲書)。
 内村の「謝辞」、埋葬におけるあの叫びは、内村が「キリスト者の復活への希望」を真にリアルに把握し、血肉化していたことを如実に示している。彼の「再臨論」については第八章において取り上げたい。

藤井武の「沙漠はサフランの如く」
 藤井武(一八八八~一九三〇)は無教会主義者、内村鑑三の弟子。四年のエリート役人の生活をやめて後、内村の助手となり、一九二〇・大正九年に独立、「旧約と新約」誌発行。彼の著書はほとんどこの誌に掲載された。「永遠の希望」(一九二〇・大正九)、「沙漠はサフランの如く」(一九二四)との両著は彼の復活・来世研究の代表作である。著作全体は死後「全集・一二巻」が一九三一・昭和六年に岩波より出版、一九三九再版。戦後一九四九年に「選集・一〇巻」が岩岡書店から、七一年に「全集・一〇巻」が岩波から出版された。生前出版されたものにはこの他に「聖書の結婚観」(一九二五)「イエスの生涯とその人格」(一九二七)「聖書より見たる日本」(一九二六)など、死後出版には長詩「羔(こひつじ)の婚姻」(一九三一、全集所収)がある。
 藤井は結婚生活一〇年にして喬子(のぶこ)夫人に病没された(一九二二、夫人二九歳、藤井武三五歳)。藤井は亡き妻の遺骨を埋葬することなく、生涯書斎の机上においていた。亡き妻との絆をうたいあげた長詩「羔(こひつじ)の婚姻」は、翌二三年から死ぬ三〇年まで書き続けられ、後に全集におさめられた。今は亡き愛する者との絆、再会のテーマが彼の晩年の著述の一つの中心であった。これは「来世研究」 の背景になっているという印象をうける。
 《日本における終末論、復活・来世研究》は、内村鑑三に基礎をすえられ、藤井武によって発展させられたという観がある。
 一九二〇年代というと、西欧の神学界では第一次大戦後いわゆる「弁証法神学」が登場して、バルトの「ロマ書」「死人の復活」が出版され、また「死人の復活」へのブルトマンの「書評」が出て、復活についてさかんに論議された時期にあたる。特にバルトの「死人の復活」(一九二四)が藤井の著書と同年に出たこと、両者とも第一コリント一五章の講解を中心にすえている点は、不思議な一致といえる。
 ここでは「沙漠はサフランの如く」を取り上げたい。「沙漠はサフランの如く」は前述のように、死の六年前、三七歳の時に出版された(一九二四)。内容は、第一~第七(章)一六三ページからなり、キリスト者の来世生活(第一)、キリストの復活(第二)、身体の復活(第四)、死後の生活(第六)などについて論じている。
 本書の特徴は、キリスト者の死に復活を直結させることではなく、その死と復活の間の状態、いわば「中間状態」について展開した点、キリスト者の復活への希望からみたキリスト者の死の変貎、死後キリスト者はどうなるのか、先に世を去った愛する者との再会、などについて取り上げた点にある、藤井はこれを「来世生活」と名づけた。
 藤井は、まず「死は万事の終局なるか」を問いかけ、「死が万事を終るとの冷き観念は、いやしくも霊的生活を営む者にとりて堪えがたき苦痛である」と述べている。また近代以後における来世観の衰退の原因を分析し、近代におけるキリスト教以外の無宗教の科学者、文学者らによる「来世への希望」が表明された例もあげている(省略)。

キリスト者の来世生活
 次に「しからばキリスト者の来世生活とはいかなるものであるか」について論じる。
 藤井は、第二コリント五・一を引用する「私たちは知つている、私たちの地上の幕屋がこわされると、天にある、手でつくられたものではない神による住居、永遠の家を私たちが得ることを」(藤井は文語訳聖書で引用しているが、これはブルトマン訳)。
 「[この引用箇所が]霊魂の不滅については一言も触れないことに注意せよ。けだし[思うに]これに触るるの必要がないからである。《キリスト者の霊魂が死後不滅なるは言をまたない》」。「聖書[先の引用]が明白ならしめんと欲するのはかえって《身体の問題》である。霊魂の活動の機関たる身体の問題である」と藤井は正しく把握している。
 「我らが現在の肉体もし壊れんか、懼るる[おそるる]なかれ。さらに勝[ま]される身体が我らのために備えらるるのであろう。すなわち一時的の幕屋に対して永遠の建造物である。地上にありてすべての地的性質を備える住所に対して、今は天上神のもとにたくわえられ、後に我らの上に降るべき住所である。…しかしながらその性質において現在の肉体と全然対照をなすべきもの、かくのごとき一種の特殊なる身体がキリスト者の未来に備えらるるのであって、この身体を纏う[まとう]ての活動が彼の永遠の生活である」という。
 将来キリスト者に与えられる新しい体「永遠なる身体」について、最良の注解として藤井は第一コリント一五・三五以下をあげた。
 「ここにパウロキリスト者の受くべき未来の身体が現在の肉体と全く性質を異にするものである事を明らかにせんと欲して、…豊かなる類例を提供せしめ、しかる後に力強き結語を下して曰く『血気の体ある如く、また霊の体あるなり』と」。
 [一五・四四の「ソーマ・プシュキコン」を文語訳は「血気の体」と翻訳した。私たちはバウアーのレキシコンに従って「地上的体」と訳す。ちなみに、コンツェルマン、シュラーゲの注解の訳は直訳で「魂的な体・seelischer Leib」。協会訳「肉の体」は適訳ではない]。
 「霊の体! それである。…霊の体というて物質に対して霊的の体の意味ではない。もししからば体はもはや体ではない。前の語の示すが如く、血気にふさわしき体に対する、霊にふさわしき体である。人の生命のうち神と交通するものを霊といい、それより以下なる思索、感性、情欲などを司るものを血気という。しこうして我らが現在の肉体は疑いもなく血気の体である」。
 「そはキリスト者の神より賦与せられたる聖[きよ]き霊の活動に応ぜんがためには、余りに不自由にして薄弱にして醜穢[しゅうわい、汚れていること]なるものであるからである。まことに霊は翼を張りて高く広く天翔[あまかけ]らんと欲するも、体はこれを地につなぎて放たない。我らはキリストの相に励まされて人類的熱愛を実行せんとするに当り、弱き身のこれを妨ぐること如何に多いかな。内なる人は日々新たなれども、外なる人は次第に壊れゆきて[第二コリント四・一六]、内外ますます相福[そ]わざる憾[うらみ]がある。これ即ち幕屋なる地上の家である[第二コリント五・一]。即ち血気の体である。しかるにこの体にしても壊れんか、何ぞ憂えん、かえってさらに勝れる体がある、『血気の体ある如く、霊の体あるなり』。霊がその主人として最もふさわしき体、霊が思うままにこれを動かしこれを用いるの体、人のすべての高き理想を遺憾なく実現しうる機関としての身体、したがって『朽ちざるもの、光栄あるもの、強きもの』(第一コリント一五・四二、四三)かくの如きものがキリスト者の来世生活を代表する特殊の生活機関である」。