建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、洗礼2 罪に対する死 ロマ6:6~14

1997-19(1997/5/11)

洗礼2 罪に対する死  ロマ6:6~14

 「私たちは知っている、私たちの古き人間は(キりストと)共に十字架につけられたことを それは、罪に属す体が滅ぼされ、私たちがもはや罪に仕えることがないためである。というのは死んだ者は罪から全く解き放たれているからである。しかし私たちがキリストと共に死んだなら(私たちがそう信じているのだが)、私たちはまた彼と共に生きるであろう。私たちは知つている、キリストは死人からよみがえらされ、もはや死ぬことがなく、死はもはや決して彼を支配しないことを、というのは彼が死んだ死をもって、彼は死との結合にただ一度限り死に、彼が生きている生命をもって彼は神に対して生きているからである。あなたがたもそうである(すなわち)、あなたがたは自分を罪に対して死んだ者、しかもキリスト・イエスにあって神に対して生きている者とみなしなさい。だからあながたの死ぬべき体に罪を支配させないように、あなたがたが罪の欲望に従うことのないようにしなさい。そしてあなたがたの肢体を不義の武器として罪のいいなりにさせないで、むしろ死人から生かされる者として自分を神にゆだね、あなたがたの肢体を義の武器として神のために用立てなさい。というのは罪はあなたがたの主人ではなくなるであろうからである。しかもあなたがたは律法のもとにいるのではなく、むしろ恵みのもとにいるのだ」ヴィルケンス訳

 6節。キリストへの洗礼は、キリストの死へとしずめられること、キリスト者が「キリストの死と同じ姿となる」ことを意味していた(5節)。この論点はここでは、さらに先鋭化されて「私たちの《古き人間》はキリストと共に十字架につけられた」と言い換えられる。「私たちの古い人間」とは、コロサイ3:9「あなたがたはその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着た」、エペソ4:22「あなたがたは前の行状による古い人を捨てなさい。それは欲望に惑わされて滅びるものである」などにある。古い世に属す罪の支配にがんじがらめ、にされていて、滅びゆく人間の意味である。パウロは、この「古い人間」が洗礼において死に至らしめられ、殺された、すなわち「キリストと共に十字架につけられた」と断言する。「共に十事架につけられる」はむろん礼典的・サクラメンタルな意味もあるが(松木、注解)それのみではない。この「共に」は「同時に」でマタイ27:44ではイエスと共に十字架につ)けられた「強盗・熱心党員」、パウロ自身も「私はキリストと共に十字架につけられた」といい(ガラ2:19)彼目身が「律法に死んだ」という重大な意味をこめて用いた。キリストの死が歴史的のみならず、終末論的であったように、決してサクラメンタルな意味のみをもったわけではなかった。キリスト者にとってこの「同時に十字架につけられる」は次の「罪に属す体が滅ぼされる」というまことに重大な意味内容を含んでいる。「罪の体の減亡」は「罪に仕えない」というキリスト者の実存の変化をともなうものであるから、キリスト者においても「自分の古い人間の死」はそれなりの認識と体験をともなうものとみるべきである。これはある種の「再生」の体験である。キルケゴールの言った「イエスとの同時性」はここでも示唆に富んでいる。
 9~10節。9節の「私たちは知っている」もすでにみたように信仰者の共通認識。ここでは「死について」全く常識を超えた見解が示される、「キリストは死人からよみがえされて、《もはや》死ぬことがなく、死は決して《もはや》彼を支配することがないことを」。すなわち、キリストの復活は神の業として受け身形で述べられているが、この復活したお方は、唯一例外的に「もはや死ぬことがなく、もはや死が支配できない」と述べられている。死に対する勝利がキリストにおいてすでに実現した。この死への勝利は、キリストの死についての驚くべき見解として示されれる。通常では死は存在の減びとされ、そして死によってはじめて人は罪から解放される(7節)。キリストの死は10節で「ただ一度限り、彼が死んだその死をもって、彼は罪に対する結合に死んだのだ」とある。死において罪から解放されるという点では、7節の通常の人間と異なることがない。しかしながら「ただ一度限り」という用語でもって「その死」が歴史的出来事であると同時に終末論的意味をもつ出来事であることが強調される。キリストは罪人として死んだのではなくむしろ私たちのための代理としてご自身を罪の死にささげられたのだ。「キリストの死にあずかる」者は「罪との結合に死ぬ」ことに「あずかる」からである。キリスト者がキリストの死にあずかることができるのは、キリストが十字架の死で死に、かつよみがえされて、死に勝利したからである。死に飲み込まれた人にあずかっても、自分も同じく死ぬだけであるが、死に勝利したキリストの死にあずかる、すなわちキリストと同時に十字架につけられた者のみが、キリストの復活にもあずかる、これがキリスト教信仰の中心的内容である(ヴィルケンス)。
 この点を11節が展開している。「あなたがもそうである、すなわち、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、しかもキリスト・イエスあって神に生きている者とみなしなさい」。「自分を罪に対して死んだ者とみなす」はキリストにおける「死の実態」すなわち「彼は罪に対する結合に死んだ」がふまえられている。この見える形が「キリストへの洗礼」(3節)「キリストの死と同じの姿となる」5節、「古き人間がキリストと同時的に十字架につけられる」(6節)「キリストと共に死ぬ」(8節)である。
 キリスト者の「共通の自己認識」として、パウロはいう、キリスト者は罪に対して死んだ者である。「罪に対して死ぬ」は「サクラメンタルに死ぬこと」ばかりでなく、キリストの「代理的死」に基づいている、「一人の人がすべての人の死んだので、すべての人が死んだ」(第二コリ5:14)。キリストの代理的的な死がなければ、キリスト者が「罪に対して死ぬこと」もまた実現しない。罪からの解放、すなわち、死、言い換えると、罪に対する死は、ここでもキリストの十字架の死に基礎づけられている。
 キリスト者が罪に対して死ぬことは、自分たちの「主人」の転換をも意味している。「死んだ者は罪から解放されている」(7節)、生きている者は「罪の奴隷、罪に仕える者」であり(7節)「罪があなたがたの死ぬべき体を支配する」(12節)。ところでキリスト者が罪に死ぬことをとおして、キリスト者は罪という主人の支配から解放されそしてキリストの支配領域へと移されたのだ、それが11節の「キリスト・イエスにあって」である。「キリスト者の実存の場はもはや罪の支配領域ではなく、《キリスト・イエスにある》キリストの支配領域である。キリスト者のこの生命領域はキリストの十字架と復活における神の行動をとおして開示されたもの、新しい被造物の生命領域である」(ヴィルヶンス)。この事態は「キリストが神に対していきている」(10節)に基づいて、キリスト者もまた「神に対して生きる」、これが「共通の自己認識」とされる。
 ここでは、キリストが死人からよみがえされた(9節)ように、キリスト者もまた「《さながら》死人から生かされた者として」とみなされる、13節。ここでは死人からのキリストの復活は、事実としてではなく「かのように、さながら」のもの「仮のもの」である。ここでは「キリスト者は、新しい服従の仕方で主のよみがえりに《暫定的に》にあずかっている」ケーゼマン。この暫定的な復活への参与と同時に、他方でパウロは、現在のキリスト者の存在が「あなたがたの死ぬべき体」であり、「自分の欲望に従う」現実があることをよく知つている、13節。そのうえで彼はこの「死ぬべき体」「古き人間」が洗礼をとおして死んだこと、それゆえに「罪に対して死んだ」ことを主張することで、「あなたがたの死ぬべき体に罪を支配させないように」と勧告する。続