建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(3)  ルカ6:20~23

1998-32(1998/8/16)

平野の説教(3)  ルカ6:20~23

 「そしてイエスは目をあげて、弟子たちに語られた
  幸いだ、あなたがた貧しい人々、神の国はあなたのものだからだ。
  幸いだ、あなたがた今飢えている人々、あなたがたは満腹させられるからだ。
  幸いだ、今泣いている人々、あなたがたは笑うようになるであろうからだ。
  幸いだ、人々があなたがたを憎む時、また人の子のゆえに彼らがあなたがたを
除名しののしり、悪様に言う時。その日には踊りあがって喜びなさい。
  というのは、見よ天においてあなたがたのほうびは大きいからだ。
  彼らの先祖らも預言者たちに同じことをしてきたのだ」。
 貧しい人々に神の国が約束されたことで、貧しい人々に何が起きるのだろうか。シュテーゲマンの解釈はすでにみた。
 イエスが貧しい人々へ「神の国」を約束されたことで、彼らに「新しい尊厳」がもたらされたと、モルトマンは解釈する。
 「福音は貧しい人々に何をもたすのか。彼らを神の国の仲間として祝福することは、彼らに何をもたらすのか。確かに飢えの終りも豊かに祝福された生の充満もいまだもたらされてはいない。しかしながらすでに《新しい尊厳》がもたらされている。貧しい人々、奴隷、売春婦たちは、もはや抑圧、屈辱の受身の対象ではなく、最初の神の子らの尊厳をもつ主体である。
 福音は彼らに豆や米をもたらさないが、神の目に彼らの打ちこわしがたい尊厳の確かさがある。このような自覚を貧しい人々、奴隷、売春婦たちは塵から立ち上がり、自ら助けることができる。金持だけが真の人間であり、それに反して、持たざる者は生存競争で成功しない「敗残者」であるとの収奪者の価値体系を、貧しい人々はもはや受け入れない。
 この支配者の価値体系が貧しい人々をとおして内面化されると、この内面化は貧しい人々の自己解放にとってひどい障害となる。そのような内面化は貧しい人々の自己破壊をもたらし、彼らの中に自ら憎悪しあうことを生み出す。貧しい人々に属す神の国の福音は、このような自己破壊を克服し、貧しい人々を立ち上がらせ、頭をもたげて生き、真っすぐな道を歩むことができるようにさせる。
 暴力行為をする者は彼ら:貧しい人々を現在の享受から締め出した。しかしながら神は彼らに将来を開き、来るべきみ国の世継としてくださる。この希望が広がる時、この将来が彼らの解放の権威となり、力の源泉となる。
 貧しい人々、無力な者らは、現在の生活の慰めとしてのユートピアを持ち出すことをせず、むしろ神の将来が彼らをとおして現在のものとなる。この神の将来が彼らのものであること、このことが力を与える」(「イエス・キリストの道」)。
 モルトマンの解釈はすぐれている。第一に、神の支配が貧しい人々に約束されたことで彼らに「新しい尊厳」が与えられたとみる点。神の支配、神は不公平に、一方的に、貧しい人々に味方しておられる、イエスの貧しい人々への祝福賛(「幸いだ」)はすぐれて党派的であって、決して公平ではない、この点をモルトマンはきっちり把握している。
 第二に、この「新しい尊厳」は、神による人間の創造における「神の似像」(イマーゴー・デイ) であると解せるが、貧しい人々はその社会の、幾世代にもわたる経済的競争・闘争に破れて、収奪されて、持たざる者となり、自分の労働力を売り、自分の存在を売って(奴隷、売春婦)、わずかな生活費を手に入れる存在に零落した。そこでは自分がかけがいのない存在であるとか、交換不可能な人格存在であるとの意識・自覚は失われて、単なる労働力、機能的存在となり、彼らは「踏み付けられてじっと我慢している人たち」(マタイ5:5「柔和な人たち」に対する塚本訳)「心の打ち砕かれた者」(イザヤ61:2、マタイ5:4「悲しんでいる人」に対するローマイヤー訳)、また「抑圧された者、隷属させられた者、悲惨な者、屈伏させられた者」(ルツの「貧しい人々」についての注解)となった。
 第三に、貧しい人々に必要不可欠なものは、決してバンではなく「失われた神の似像の回復」すなわち、ありのまま自分を受容してくれる存在、神である。自分のかけがいのない存在として探し出し、連れもどしてくださる神の接近、神の支配に到来である。「神の愛による再生」である(ゼパニア書)。富める者を締め出し、貧しい人々のみを受け入れる党派性をもった神の支配に出会って、貧しい人々は新しい尊厳、自分がこの支配にあずかるとの尊厳を獲得する。
 第四に、けしてユートピアに幻想をいだかない。21節の「満腹」は、イザヤ25:6にあるように、神の救いが食事、祝宴として「肥えた肉と葡萄酒の祝宴」と述べられている。決して「満腹」も22節の「笑い」も金持の行為ではなく、「笑う」も、「ヤハウエの大いなる救いの業」に対する民の反応である、「主がシオンの繁栄を回復された時、われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた」詩126:2。