建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

悪霊追放  マタイ11:28 (癒し奇跡のもつ全体的、包括的、神学的信仰的考察)

週報なしー13

悪霊追放  マタイ11:28

 福音書におけるイエスによる「いやし」のテーマをいくつかに分けて学んでみたい。イエス・キリストの生前の活動は、神の国の説教と奇跡をおこなったこととの二つにまとめられるが、このうち、奇跡は癒し奇跡と自然奇跡とに区別される。また、癒し奇跡は癒し(外科的内科的癒し)と悪霊追放(精神疾患などのいやし)とに区分される。ここではまず悪霊追放について取り上げたい。
 イエスの宣教のもつ「社会的な射程」については、当時のユダヤ社会において社会的・人間的にばかにされ、交わりからつまはじきされていた階層、取税人や罪人、遊女、子供らにイエスは意図的に近付きたもうて、彼らとの交流をされたことで明らかである。「彼・イエスは取税人や罪人の友だ」マタイ11:19、「取税人や遊女は、あなたがた(律法学者、パリサイ人)よりも先に神の国に入る」21:31、「貧しい人々は幸いだ。神の国はあなたがたのものとなるのだから」ルカ6:20、「心を入れ換えて幼子のようにならなければ、天国(神の国)に入ることはできない」マタイ18:3など。当然のことながら、イエスのこの行動はユダヤ教の律法にふれるものとみなされたので、当局や指導者層から非難されやがては告発された。このような社会的射程については、これまで割合強調されてきた。
 これに比べて、イエスが近付きたもうたもう一つのグループ、社会的人間的に交わりから締め出された、病人の問題については、テーマとして少し難しい点がある。その難しさはおそらく、イエスのなされた癒し奇跡をどう理解するか、さらに、専門的な批評的な研究のみが目について、イエスのなされた癒し奇跡のもつ全体的、包括的、神学的信仰的考察が少ないため、であると思う。
 イエスの癒し奇跡をどのように理解したらよいのであろうか。
(1)科学的な世界観から見れば、一般にそういう奇跡は「ありそうもないこと」であるとの立場はあるにはあるが弱い。福音書はイエスによってその病気を癒された人々の名を少数ながら伝えており、彼らは原始教会の指導者、信仰者となったから。これは癒しが現実に起こったから彼らのその後の人生を変えたことを物語る。マグダラのマリア、ヨハンナ、ルカ8章。バルテマイ、マルコ10:46以下、ペテロの姑、同1:39以下など。
(2)他方イエスは神のみ子であるから、何事も可能であり、奇跡もおこなえた、という考えもあまりに素朴すぎる考えである。というのはこの立場は、癒しの記事をその書かれた状況から取り出してしまって「一般化」しその記事に込められた意味をきちんと受けとめないからである。
(3)また、当時の世界で行なわれた「奇跡の人・神の人」による癒し奇跡、ギリシャ・ローマ世界におけるエピダウルス(当時のルルド)での碑文にある足の不自由な人の癒しの例、ユダヤ教のラビ・ペン・ドーサによる癒しなど(フラー「奇跡の解釈」)とイエスにおける癒しとを同一視すること、つまり、過去におこったきわめて例外的な不思議な奇跡とみなすことも正しくない。その理由はいろいろあるが、一つにはイエスにおける癒しは生前のイエスの活動、その宣教と不可分に結びついており(刺身のつまではなく)、またその活動の本質部分をなしていたから。それゆえ、イエスのなしたもうた癒しのもつ特殊な面、「新しさ」をとらえることが重要となる。この新しさについてはさしあたり「救済史的」(旧約の預言者の約束の実現)、「宇宙的」(神の国・救いの時の到来した時点で起こる旧世界の変動)と表現できよう。

悪霊の追放
 共観福音書の、マルコ伝だけでも12の癒しの記事、4つの癒しについての要約的言葉、悪霊追放についての4つの言及、並行記事がある。
 惡霊追放については、外・内科的な意味で、「口のきけない悪霊につかれた人」マタイ9:32以下、12:22以下というように、悪霊が口がきけない、盲目の原因のように見られて場合もあるが、通常では、カペナウムの惡霊につかれた人の癒し(マルコ1:21以下、ルカ4:36以下)のように、悪霊追放という場合、その人の「精神障害てんかんなど」の癒しを意味する。同じ記事では、ゲラサの惡霊につかれた人の癒し(マルコ5:1以下、マタイ8:28以下、ルカ8:26以下)がある。例えば、マルコ5章の「汚れた霊につかれた人」においては、その人はたびたび鎖でつながれたが、それを引きちぎり誰も彼を鎖でさえつなぎとめておけないほどであった。また、自分の体を石で傷つけたり、大きな叫び声をあげていた、マルコ5:3以下。ルカ9:39でのてんかんの息子は汚れた霊につかれると引き付けを起したり泡を吹かせたり叫び声をあげた。悪霊はこのように人間存在・生命体を駄目にしてしまうものである。悪霊の追放の一つのポイントはサタンと神との対決である。このサタンと闘うのは「神の霊の所有者」(「神の霊によって」)イエスである。注目すべきは、その病人が墓場をすみかとしていた点である(マルコ5:3)。これは、彼がその病気のゆえに、家族と共に暮らすことができないで家族や共同体との交わりから遮断され、人々と自分自身から神に呪われた存在とみなされたことを示したものである。それゆえ、癒し奇跡の結びの句にしばしば出てくる、イエスが癒した相手に対して「家に帰って家族の者に」主が自分を隣れみどんなことをしてくださったかを、「知らせなさい」と命令された点(5:19)は、病気を癒された者が、再び家族や共同体に復帰したこと、神からの呪いのようなものから解放されて、心身の健康をとりもどしたこと、そればかりでなく宗教的な救い、神のあわれみの体験者となったこと、を意味している。言い換えると、イエスが語られた「神の国の宣教・救い」は、イエスの言葉といやしめられてきた人々への接近の行動をとおして、神の国・神のあわれみの近いことが伝えられたが、他方、癒し奇跡においては、「癒し」神の隣れみの体験(「イエスはその子を癒して父親に返された」ルカ9:42)がなされたこと、さらに「古い世の終焉」ーー「ああ不信仰な曲がった(腐り果てた)時代」(ルカ9:41)に力を揮った悪霊が追放されたことによって示されるその終焉を意味する(後述)。神の国の到来はここではイエスの癒し・悪霊追放をとおして、癒しにおける神の隣れみの近き体験として見える形をとるーーイエス神の国の宣教・救いは、この癒しと緊密な結合を語っている。
 イエスご自身が悪霊の追放をどう理解されていたか、については、マタイ12:28「私が神の霊によって(ルカ11:21では「神の指」)悪霊を追い出しているなら、神の国はあなたがたのところに来たのである」が重要である。
 ここで明らかなように、イエスによる悪霊の追放は、当時のユダヤやローマの世界で行なわれた「悪霊の追放」一般と同一視できない(ユダヤでのパリサイ派によるそれについてはマタイ12:27 「あなたがたの仲間は誰によって悪霊を追い出しているのか」)「もし私が」の「私」は強調されていて、ほかでもないこの私、のニュアンス。パリサイ派のそれとイエスのそれが違うのは、イエスが語っているように、イエスによる悪霊の追放が「神の国到来」と結びついている点である。神の国の到来、「神の国はあなたがたのところに来た・エフタセン」は、神の国、神の支配、究極的な救いの動的な現臨をいっている。従来の古い世を支配し力をふるい、人々にとりついては彼らを苦しめていた悪霊・ダイモニオン、人間存在の破壊し破減させる者の霊、力が、今やイエスによって追放されている、「あなたは私たちを滅ぼすために来られました」マルコ1:24、「まだその時でないのに、あなたは私たちを苦しめるために来られたのですか」マタイ8:29という悪霊たちの側の叫びがあがること、メシアが来て神ご自身がこの世、地上を支配されそこにすまおうとされる状況では、悪霊たちは姿を消すしかない。ルカ10:18「私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」。その他マタイ8:32。それが現実に起こっているーーそのことは、例を見ない驚くべき目を見張る奇跡的現象だ、というのではなく、そのような奇跡的な癒しをとおして神の支配、それは神の慈しみの支配なのであるが、その神の支配が人間社会のみならず、宇宙的な広がりをもって体験可能なものとして人々、特に弱い人・病人へのイエスの癒しをとおして到来したこと、これが眼目である。
 したがって、イエスの悪霊の追放から、このような神の慈しみの到来というポイント、文脈を取り去ってしまうと、このテーマはイエスの活動に付加されたおまけのような、どうでもいいようなもの、刺身のつまになってしまう。現代の私たちが、イエスの悪霊追放のもつ「このポイント」、終末論的・宇宙的な要素をふまえる一つの可能性は、私たち自身における「終末・危機の意識」、従来の生活から遮断される状況、時間の流れが全く別様に感じられる生活、例えばソルジェニージンにおけるような収容所体験、長期の入院生活のようなもの、信仰的な回心の体験などにあると思う。