建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

神の国の到来について(1)  ルカ17:20~24

1999-20(1999/5/23)

神の国の到来について(1)  ルカ17:20~24

 「イエスはパリサイ人らから『神の国はいつ到来するのですか』と尋ねられた時、答られた『神の国は、人が(その到来を)算定できるようには、到来しないし、また人が<見よ(神の国は)そこにある>とか<ここにある>と言うことができるようには、到来しない。というのは見よ、神の国はあなたがたの《ただ中に》あるからだ』」。

 イエスは弟子たちに語られた、『あなたがたが人の子の日をたった一日でも見たいと切に願うようになる日がやがて来るであろう。しかしあなたがはその日を見ることはないであろう。そして人々はあなたがたに<(人の子が)見よ、あそこに、見よ、ここに>と言うであろう。(そのように言う者たちに)ついて行くな。その者たちを追いまわすな。というのは雷の時、大空の下で一つの端から他の端まで稲妻が照らすように、その日には人の子も同じようであるからだ」。

 ここはルカ伝だけの記事。よく知られた箇所だが、特に21節後半「神の国はあなたがたのただ中にある」の解釈は難しい。
 20節「神の国は算定できるようには到来しない」は神の国の到来の時期を《年代記的に算定できない》ということ。ユダヤ教の正統派・パリサイ派神の国到来を算定・観察を試みたことへの反論と解せる。またモタヌス主義のように、何年何月何日と予告できるようなものではない、確定できる将来ではないという意味。「神の国」は用語的にはダニエル2:44「王たちの時代に天の神は一つの王国をたてられ、それは決して滅ぼされることがない。その支配は他の王国に渡されない」などに出てくる。21節「そこにあるとか、ここにあるとか」場所的に規定・定義できないという意味。確かに「バシレイア・トゥー・テウー」の英訳「キンダム・オブ・ゴッド=神の王国」やルタ一訳は場所的要素をイメージさせるが、ドイツ語訳「神の支配・神の王的支配」にはその要素はない。この箇所は「神はやがてシオン・エルサレム神殿に臨在する」とか、また荒野に共同体をつくって「神・メシアは荒野に現われると信じていたクムラン教団の立場」(後期ユダヤ教モーセの昇天「天にいます方がその野なる住まいから立ち出られる」など)、またマタイ24:26「見よ、メシアは荒野にいる、という者があっても出ていくな」などへの反論と解釈できる。
 さて問題の21節後半「神の国は《あなたがたのただ中にある》」はこれまで論争されてきた。「ただ中に・エントス」の意味は「…の領域内に・…の内に・…のただ中に」。しかも「心の中に」という意味は全くない、バウアーの字典。語の意味は「すでに今あるなんと突然に存在する」。翻訳をみてみるとフイッツマイヤーは「あなたたがたの中に(アマング)ある」、エレミアスは「あなたがたのただ中に(突如として)存在するだろう」。ブルトマンは「神の国は突然勃発する」と解釈する。
 教会史においては「神の国は間近に追っているがまだ到来してないとの立場」(「徹底的終末論」アルバートシュヴァイツアー、20世紀始め)と「神の国は到来したとの立場」(「実現された終末論」ドット、1930年代)が論争されてきた。
 とにかく「神の国はあなたがたのただ中に」は神の国イエス・キリストにおいて現われた、神の国はイエスによって《説教》され、イエスの《活動》において示現していることを言っている。
 ルカ11:20「私が神の指で悪鬼を追放しているなら、神の国はあなたがたのところに来ている」悪霊追放、マルコ5:25以下の長血の女の癒し「娘よ、あなたの信仰が病を癒したのだ、平安あれ、達者でいなさい」などの癒し。マルコ1:14、15「時は満ちた、神の国はすでに近くまでやってきている」、ルカ10:9「その町の人に言いなさい、神の国はあなたがたに近づいたと」、ルカ7:22「盲人は見えるようになり、足のなえた人は歩きまわり、ライ病人は清められ、死人は生き返り、貧しい人は福音を聞かされている」など。マタイ5:3「幸いなるかな、心の貧しい者たち、天国はその人たちのものとなるからだ」。これらのイエスの悪霊追放、病気の癒し、説教において神の国が示現・現臨している。さらにイエスの、罪人らとの食卓の交流など「レビ人がイエスのために家で大晩餐会を催すと、取税人や他の人々が大勢イエスや弟子たちとともに食卓についていた『なぜあなたがたは取税人や罪人と共に飲食するのか』」ルカ5:29、ここにも神の国は示現したといえる。神の国は、イエスの説教、活動においてのみならずイエスの《人格》においても現臨している、世俗の王国の場合、王や元首やその代理者をとうして支配がそこに現臨するのと同様に、ということ。イエスの人格において神の国が現臨しているゆえに、用語・訳語は「神の国」より、「神の支配」がよい。
 ここではイエスの活動をもって、イエスの活動、人格において、神が近づいたことを言っている、言い換えると、神の国の「現在性」がここでは強調されている。神の国の到来は「救いの到来」と解釈できる。イエスのすべての活動、悪霊追放、癒し、罪人との食卓の交わりにおいて実現した神の国の到来、これについてのイエスの説教を聞き、それに心を開くならば、それによって私たちは救いを得るのである。