建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

金持とラザロ  ルカ16:19~26

1999-19(1999/5/16)

金持とラザロ  ルカ16:19~26

 「ところで一人の金持がいた。彼は紫の衣と亜麻布を着て 毎日華やかに楽しく暮らしていた。さてラザロという名の、出来物だらけの一人の乞食がその金持の門のところに寝ていた。ラザロは金持の食卓から落ちるもので満腹したいと切に願っていた。しかし犬がきて彼の出来物をなめた。乞食は死んでみ使いによってアブラハムのふところにつれていかれた。金持もまた死んで埋葬された。そして彼は黄泉で苦しんでいたが、目をあげるとはるか彼方にアブラハムとそのふところにいるラザロとを見た。そこで金持は叫んで言った『父アブラハムよ、私を憐れんでラザロを遣わして指先を水にひたし私の舌を冷やすようにしてください。私はこの焔の中でひどく苦しんでいます』。アブラハムは言った『子よ、思い出してみなさい、あなたは生きていた時、善いものを受けていた。ラザロは悪いものを受けていたのだ。それで彼は今ここで慰めを与えられた、あなたはひどい苦しみにあっているのだ。のみならず、あなたと私たちとの間には、大きな深淵があってここからあなたがたのほうに渡ることも、またそこから私たちのところへ超えてくることもできないのだ』」。
 この箇所もルカ伝のみのもの。この譬のテーマは「物質の所有について地上的生活と死後の生活とでは完全に逆転される」という点にある。
 19節「金持」は高価な毛織の紫の上着とエジプトの亜麻布の下着、最高の服装、を着ていた、そして毎日豪華な宴会をしていた。これにひきかえ、ラザロ(「神助けたもう」の意)は皮膚病に悩まされた、乞食である。「食卓から落ちるもの」は「金持の食卓についている人たちから床に投げ落とされるもの、パンのくずではなく、パンのかたまりのこと」、ラザロは乞食として喜んでそれで飢えを満たしたいと望んだ。21節で犬がラザロの吹出物をなめたというのは、彼が犬を追い払えないことも言っているので、彼は身障者らしいが 犬にまでなめられるほどの彼のみじめさ「悲惨さ」が強調されている。
 22節、ラザロは死に、み使いによって「アブラハムのふところ」にともなわれた、この「アブラハムのふところ」は、葬儀も埋葬されることなく放置された者が、かわりにみ使いによって運ばれ・天的世界に移されたということ、この見解は、エジプトから流入したもので前2世紀以後のユダヤ教文献に出てくるという。「アブラハムのふところ」は、死後の生活における栄誉と安息と幸せの場所・地位のことで(フリッツマイヤー)(アブラハムはむろん神の代わり)アブラハムの右の席。ラザロが死後「義人の最高の地位にすえられた」こと。彼は生前においては、食卓につくことができず「食卓の下の場所しか与えられなかった」が、今や「神の祝いの食卓についている」。ここは「神の国の祝宴」のニュアンスがある(ルカ14:15)。すなわち神は極貧の者、見捨てられた乞食の神であられることを示している。後述。
 他方金持も死んで葬儀も行なわれ、埋葬された。しかし彼は「黄泉・ハーデスで、苦痛に苦しみ」、金持は「アブラハムのふところ」には行くことができず「ハーデス・黄泉・陰府にいった」しかも安息どころか「苦痛に苦しんでいた」。「苦痛」の一つは24節によれば「渇き」であったようだ。
 24節で金持はアブラハムに慈悲を乞うている、しかし金持の生前の生き方が批判されたり告発されてはいない。
 25節は金持とラザロへの「判決」である。ここがいわば頂点。「あなたは生きている時善きもの・祝福を受けた」のに、ラザロは不運な境遇にあった。「今ここで」死後において、ラザロは「慰められた」。ここは神的受身形で神によって慰めが与えられたこと。生前においてはラザロは病気(吹出物)身体的な障害(犬を追い払えない)乞食(貧困と飢え)人々からの軽蔑に耐えた。この貧困と悲惨な生活に対して来世・死後には神による慰めと名誉ある地位が与えられた。他方地上での富に対しては、来世では黄泉の激しい苦悶が待っていた。この事実こそこの譬えの帰結なのだ。この帰結は変更不能である、26節「深淵」。「社会的境遇の終末論的逆転」である。生前における金持と乞食ラザロの間にも、実は超えがたい「深淵」大金持と乞食という社会的身分の差があった。それが死後においては、逆転して超えがたい別の「深淵」が横たわっている。
 この譬の「主人公」は金持ではない(そもそも彼には名がない)。富める者の告発や彼らが死後において陰府に落とされてほどい苦悶を味わうとの富める者への警告が主題なのではない。むしろ主人公は乞食のラザロであり、地上で悲惨な境遇にあった乞食、貧しい者が死後神によって慰めを受け、名誉ある地位にすえられるというのが主題である。貧困という社会的情況は、神義論のテーマともなりうるが、神による正義の実現はこの世においてではなく、死後・将来に行なわれる、その将来も決して遠い先のことではない、二人とも「死んだ」と述べられているから。正義の神は遠くない将来においてその正義を実現される、その正義とはこの世において悲惨な境遇にある乞食や貧しい者を神が「慰められる」、神は貧しい者の神でありたもう、神は極貧の者、乞食、身障者に正義を実現されるお方として、社会的境遇を逆転なさる(マリアの讃歌ルカ2:52~53、平野の説教「幸いなるかな、あなたがた極貧の者たち」6:20)、このようにして神は極貧の者の希望となりたもう、これがこの譬のテーマである。