建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

不正直な裁判官の譬  ルカ18:1~8

1999-21(1999/5/30)

不正直な裁判官の譬  ルカ18:1~8

 「ところでイエスは弟子たちに、倦むことなく常に祈るべきことに関して、一つの譬をお話になった。『ある町に一人の裁判官がいた、彼は神を恐れず、決して人を人とも思わなかった。またその町に一人のやもめがいて、裁判官のもとに《来つづけて》言った <私の敵に対して判決をくだしてください>。裁判官は長い間判決をだそうとはしなかった。その後ひそかに思った。<私は神を恐れず、決して人を人とも思わないが、彼女は私をわずらわせるので、このやもめに判決をくだしてやろう。そうすれば、最後にやってきて私をくたくたにすることもないだろう>』。そこで主は言われた、この裁判官の言ったことを開きなさい。神がどうして《夜も昼も呼びかける》その選ばれた者たちに判決をくだされないことなどあろうか。神が彼らに気長になられる(放置する)ことなどあろうか。私はあなたがたに言う、神は間もなく判決をくだされるだろう。しかし人の子がこられる時、地上に信仰をもった人が見い出されるだろうか」

 ここもルカ伝のみの記事。ポイントは1節に示されている「倦むことなく常に祈るべきこと」。この「裁判官」は、「神を恐れず、人を人とも思わない」とあり(2、4節)さらに「不正直な」と呼ばれているが(6節)、正しい・公正な判決を出すことがない、金で動くすなわち買収できる、最悪な裁判官という意味である。「人を人と思わない」は人の陰口や批判など気にしないこと。「やもめ」は未亡人で、別に年配とは限らない。とにかく彼女は、孤児同様、頼る者のいない、非力な存在であり、貧乏である。彼女は今民事的訴訟の判決・裁定を待っている。その訴訟は金銭的訴訟で、抵当や遺産相続が差し止められて自分に渡されないなような状態にある。彼女の「敵」は金持であろう。彼女はその裁判官を買収するお金はないので、毎日毎日裁判官のもとに通い続けた、「来つづけた」3節。そして早く判決・決着をつけてくれるように訴えた。
 はじめのうち裁判官はとりあおうとしなかったが、やがて裁判官は彼女の訪問が煩わしくなり、閉口しうんざりしてきた。憐れみや正義感からではなく、うんざりして、へとへとにされて、裁判官は彼女のそこなわれた権利を回復する裁定をくだすことにした、5節ーー彼女の「しつこさ、執拗さ、反復され、倦むことない執念」に根負けしたのだ。
 そして総括的にイエスは「根負けした不正直な裁判官の言うことを聞きなさい」と言われた、6節。こんな不正直な裁判官でさえ、倦むことない、根気強い、貧乏で寄る辺ない女性に対して、いやけ気がさしてみこしをあげるのだ。
 7節の「夜も昼も叫んでいる選ばれた者」ここは、初代の教会の状況を述べている、それは「叫んでいる」は継続的な叫びの行動で、迫害や試練の中からの弟子・キリスト者の「選ばれた者」の叫び・訴え・祈りである。「夜・昼」はいつも。「気長になられる」は本来、忍耐する、寛容であるの意味。神が弟子やキリスト者の訴えに対して、機敏な行動を起こされない、ほっておくこと。判決・裁定を先へと引き伸ばすこと。「神が…であろうか」という修辞疑問は、ニュアンス的には「約束された人の子の来臨が遅延している教会の状況」をふまえている。そして8節で回答がある「間もなく、神は彼らに判決をくだされるであろう」あるいは「彼らの立場を弁護される、彼らの訴えを開き入れる」。「間もなく」は文字通りの意味ではなく「突如として」の意味。具体的には、この回答は人の子の来臨である、8節。「信仰」は定冠詞がっいているので信仰一般ではなく、特定の信仰の形、試練の状況において「継続的な祈るように導くような信仰」を意味していよう。イエスは試練の中で弟子・信仰者らが祈ることをやめてしまう、自分たちの試練に神が介入されて、彼らの祈りを聞きとどけられることを信じられなくなる、そのことを心配しておられる。激しい迫害、試練の中で、祈ることがなくなる、これは歴史の中で体験されたはずだ。他方、厳しい拷問やアウシュヴィッツでも祈りはとだえなかったことも報告されている。