建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、政治的権力との関係 2  ロマ13:3~4

1998-5(1998/2/1)

政治的権力との関係 2  ロマ13:3~4

 「支配者たちは、善き業にとってではなく、むしろ悪しき業にとって恐れるべきものであるからだ。あなたが権力を恐れることを欲しないなら、善きことをしなさい。そうすれば、彼らから誉められるであろう。すなわち彼らはあなたの《善き業》のために神に仕える存在である。もしあなたが悪をなすなら、あなたは恐れなさい。彼らが剣をおびているのはいたずらではない。すなわち彼らは惡をなす者にとっては怒りの審判のための復讐者として神に仕える存在である」
 パウロの勧告が前提とした、ローマおよびその他のの教会にあった「気分」として、第二に推定できるのは(第一は前回取り上げた「反ローマ的気分」との推定)「地上の政治権力に対して距離を置いたり、それを軽視する傾向」である、ヴィルケンス。「ローマの教会が公然たる叛徒となるというのではないにしても、他の仕方で《国家から示威的に距離をとり》、自分たちの市民としての義務を怠るという危険の中にあった」(ボルンカム「パウロ」)。
 3節では「国家権力に服従せよ」の第二の根拠づけがなされる、これは服従の第一の根拠づけ「政治的な権力が神によって立てられたもの」に比べてまったく「国家権力のもつ機能」からの根拠づけである。ここの「支配者たち」は国家権力と同じで、ローマの官憲のこと(第一コリ2:8「この世の支配者」)「民衆と実際接触する高位の役人」のこと(石井晴美「新約聖書における国家と政治」)。国家権力「支配者たち」に関する、第二の根拠づけとは4節「彼らはあなたの善き業のために神に仕える存在である」、5節「彼らは悪をなす者にとっては、(神の)怒りの審判のための復讐者として神に仕える存在である」。4節の協会訳「あなたに《益》を与える」はカルヴィンが採用した訳語だが「益を与える」はエゴ的な意味もあるし、対句の「惡しき業」との対照は不明確となるのでよくない。「政治的権力には、一方では裁く力、他方では善、すなわち外的正義に導く教育の権利が与えられている」(ボンヘツファー「倫理」)。
 「神に仕える存在」は直訳では「神への奉仕者・ディアコノス」(4、5、6節)明らかにパウロはこの表現を強調している。
 パウロのいう「善き業」は神とは関連づけられていない、「市民的な正義」の行動である、ケーゼマン。「市民的正義」とは権力が要求する「市民的な義務」この善き業を促進増大させるのが支配者たち、政治的権力の職務である。「悪しき業」とは法を犯す行為である。これを摘発し、裁くのも彼らの職務である。
 国家権力が国民を支配する方法・体制は、いくつもあるが、一般には「法律・裁判所」と「警察・軍隊」である。「善き業・惡しき業」を裁定するのも、ここでは法である。支配者たちが恣意的に、勝手に法を定めても、《その法を犯す》、これが一般に「悪しき業」である。
 問題となるのは政治的な権力が政策として「悪しき業」をなす時でも、人はその政治的権力に服従しなければならないのかである。シリアのセレウコス朝のアンティオコス4世のユダヤ教徒追害、ローマ帝国ドミティアヌス帝のキリスト者迫害、徳川幕府キリシタン禁制、明治政府のキリシタン弾圧・禁制(1808~74・明治1~6年)など。宗教、思想の弾圧のための「法」を政治権力が制定してそれをもって宗教弾圧をなす、法的にユダヤ人など特定民族を追害する(ナチスの「アーリア条項」)戦前の「治安維持法」(1941・昭和16年改正)など。治安維持法の第7条「国体を否定し神宮もしくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者は、…無期または4年以上の懲役に処し…」は共産党、あるいは、宗教団体を弾圧し、追害した「悪しき法」であった。キリスト者のうち、特に自覚的に「神社参拝」を拒否した者たち、ホーリネス教団などが弾圧された。したがってこの「悪しき法を犯した者たちは本来パウロのいう「悪しき業をなす者」でなく、歴史が証明したように神との関係・信仰の服従と「善き業」であった。「神社参拝の拒否・善き業」が現実の法律、治安維持法に照らすと「悪しき業」として断罪され、ぎゃくに「悪しき法」に触れないこと「見せかけの善き業」が歴史的には「悪しき業・偶像崇拝」として後に告発された。 言い換えると、パウロキリスト者がどの程度まで政治的権力(「神への奉仕者」)に服従菅期だと考えていたのか。パウロは政治的な権力が、キリスト者たちを追害し、苦しめ、死に至らしめるという状況にはなかった。第一テサ2:14以下でパウロがあげている迫害者は「ユダヤ人」であって、ローマの役人・官憲ではなかった。後にドミティアヌス帝の皇帝礼拝の強要(「この獣を拝む」黙示録13:8)のもとで、キリスト者は迫害された(同13:5)。「政治的な権力が教会を支配する《主》となることによって、権力者がその委託(善をのばし、悪を懲らしめること)を踏み超える」状況でキリスト者は政治権力に服従すべきか。パウロはそこまでは考えていなかった。松木の注解がこのポイントを指摘している。
 政治的な権力が「神からの委託(勧善懲患)を公然と否認してキリスト者を神の戒めと衝突するように強制する」(このことは戦時下の、ドイツや朝鮮、日本において現実に起きた)その場合には、、キリスト者の権力への服従の束縛からとかれる、ボンヘッファー「倫理」。その場合でも、キリスト者は別の形の権力への服従「カイザルのものをカイザルに返す」(マルコ12章)義務は果たすべきである、7節。