建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、政治的権力との関係 3 ロマ13:4~7

1998-6(1998/2/7)

政治的権力との関係 3 ロマ13:4~7

 「それゆえただ怒りの審判のためばかりでなく、良心のためにも、従うことが不可欠である。それだからあなたがたは税金をも納めなさい。というのは、彼らはほかでもなくまさしくこのことに携わってきた《神に仕える人々》だからである。負い目があるすべての人々に返しなさい。税金を納めるべき者であれば税金を、関税を支払うべき者であれば関税を、恐れるべき者には恐れを、尊敬すべき者には尊敬を」ヴィルケンス訳
 5節「怒りの(審判の)ためばかりでなく、良心のためにも従うことは不可欠である」について。「怒りの審判」は4節にある「政治的権力が怒りの審判の報復者として剣を帯びている」に関連する。彼らは「反乱者や惡をなす者」を恐れさせねばならない。この「恐れ」は服従のための第一の、正当な動機づけとなる。しかし服従の動機づけはこれだけではない、これだけでは強制的な服従であって、主体的な服従はでてこない。主体的な服従は「良心のためにも」とある。「良心」は「善惡を知る内面的な知識」のこと、ヴィルケンス。要するに国家権力が剣・警察・軍隊という権力をもつとの外面的な理由ばかりではなく、人は善をなすべきで悪をなすべきではないと良心自体が知つており、自分の良心に逆らう場合には、良心は内面的な責苦となるがゆえに、人は国家権力に服従すべきである、とパウロはいう。
 カルヴィンは「服従する者はただ君主や支配者への不安からだけでそれをなすべきではなく、神ご自身が服従させたもうがゆえに、また支配者らの権力は神に由来するゆえに、人は服従すべきである」と述べている、という(「綱要」、ヴィルケンス)。
 「国家権力が剣を帯びている」について、4節。「剣」はそり身のはいった短刀(マタイ26:51、石井晴美)。「剣を帯びている」というのは「官憲」が警察権力として武装していることだけを述べているのではなく、惡をなす者や反乱を企てる者たちを報復的に罰する懲罰権を言っている。悪をなす者を懲らしめる「悪をなす者に神の怒りの審判の報復者」はいわば「この世的な正義の執行」であるが、この執行者をパウロは「神に仕える国家の当局者」と正当化している、4節。
 社会的にみると「権力・暴力」には「行為としての暴力・犯罪」ともう一つ「存在としての暴力」が存在する。警察・検察、軍隊が後者である。無政府主義者は、この双方を強く否定する者もいる、トルストイなど。しかし軍隊はともかく、警察権力まで否定するといわゆる無政府状態となる。
 この「存在としての暴力・警察・軍隊」は絶えず、二面性をもっている、一つは犯罪に対する懲罰をもって世の秩序を保つこと。もう一つは、その警察・軍隊という国家権力が「国民・人民」に向けられる、いわゆる「治安警察」、軍隊の「治安出動」である。1956年のハンガリーブダペスト、1968年のプラハでは(90年の北京の天安門でも)ソ連の戦車軍団は改革を叫ぶ民衆を蹴散らせて、その声を圧殺した。
 教会史においては、カルヴィンはこの箇所について、悪人を死刑に処すことを神の報復的執行とみなした、「悪人の血を流すことが悪であるというのなら、それは神に不平を言うことである」と注解した(松木、注解)。カルヴィン派のカイパーは、国家権力のおびている「剣」は三つ意味をもつという。第一に国家が犯罪者に実刑を課す剣、第二に外国の侵略から自国を守る戦争の剣、第三に国内における反乱・暴動を制圧する剣、と解釈した。軍の治安出動をまで「パウロが容認した」というのは、少し拡大解釈であろう。ドイツの保守的な神学者シュラッターは国家権力を軍備をもって基礎づけることは、委ねられたところの神の委託の実現を可能にする、とパウロは考えていた、と解釈した(松木、注解)。シュラッタ一の解釈も「国家権力の軍備」が他国を侵略する手段とされ、正義を求める国民、民衆を弾圧し、無辜の民族・個人への抑圧・追害者に用いられた国家権力の危険性・惡魔性についての歴史的事実をふまえていない。
 6節。パウロは国家権力への服従、法を守ることを《具体的に》考えている。それが「税金を支払う」というポイントである。「税金」はいわゆる、住民税、所得税、地租税など直接税で、「関税」は商品・物品にかかる税金のこと。
 パウロが「税金間題 に言及したのは、それなりの理由が考えられよう。ユダヤで起きた熱心党の運動・反乱は、ローマの徴税に反対する運動であった。行伝5:36以下によれば、クレニオがシリア総督であった時(前6年ころ)、人口調査(徴税のためであった)に反対して、ガリラヤ人ユダが反乱を起こして鎮圧された。イエスの時代にも、総督はユダヤ人から税金を取り立てた、マタイ22:21。熱心党にかぎらず、ユダヤ人全般に税金にはナーヴァスになっていた。
 7節。「税金を納める」という行為自体が、税金を徴集する王、支配者、国家への服従を受け入れたことを示す行為である。パウロは、人間が政治的権力者に対して、本来的に「負い目を返済すべきだ」とみている。すなわちマタイ22:21の立場、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」とは違って、支配者のみに「負い目・借り」があるという。後半の「恐れるべき者」と「尊敬すべき者」とは両方とも「支配者たち」を指している、ととれる。しかし「恐れと尊敬」とを「神」に関連づけようする解釈もある(シュラーゲ)。また第一ペテロ2:17「神を恐れ、王を尊敬し」にもとづいて「恐れるべき者・神には恐れを、尊敬すべ者・支配者には尊敬を」との解釈もある(石井)。ケーゼマンはいう、
 「キリスト者には外面的な態度での見せかけの服従は存在しない。これは政治的にも妥当する。《パウロは支配者を惡魔化させることも、栄光化することもしていない》。キリスト者はいつも果たすべきさまざまな義務のもとにある。政治的権力の問題が決して視野から退くことはない。パウロは《狂信主義者ら》に向って、これまで民衆の哲学の助けをかりて秩序へと呼びかけたが、ここでは、狂信主義者らに向って、ヘレニストの国家観、市民観を受け入れることで秩序へと呼びかけている。日常生活において神の御心に出会うのであるから、日常生活から隠遁してはならない。確かに政治的な領域での眼目は暫定的だという点にある。しかし私たちの神奉仕がこの暫定的なものの中でなすべきこと、善かれ惡しかれその状況において不可欠のことをなすべきこと、これを承認しないのは狂信主義者のみである」。
 ボルンカムもこう述べる、「イエスはパリサイ人との税金間答(マタイ22章)の中で人はカイザルに何を負っているかという自分に対して緊急の問いを提起されたが、パウロも同様に、政治的・社会的反乱に向うあらゆる傾向を乗り越えている。その際キリスト者の存在と態度とに関する問いは、世界の現状の変革に関するあらゆる問に優位をもっている。そこにおいて『個人化』を見出すのは、パウロの考えるところにおいても、救いの出来事においても革命的な世界を転換させていく力を把握することができない。…どのような場合でも、キリスト者にとっては国家を栄光化したり、絶対的に悪魔的としたりすることはできない。キリスト者にとって可能なのは、国家を神によって設けられた秩序としてその地上的時間的境界の中で尊重することであろう」(「パウロ」)。