建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、隣人愛  ロマ13:8~10

1998-7(1998/2/15)

隣人愛  ロマ13:8~10

 「誰でも互いに愛しあうこと以外には、借りがあってならない。というのは隣人を愛する者は律法を成就したかたからだ。『あなたは姦淫してはならない』(出エジ20章14節)。『殺してはならない』(同13節))。『盗んではならない』(15節)。『むさぼってはならない』(17節)。そして従来戒めとして存在していたものを一言でまとめるとこうなる、『自分自身と同じように、あなたの隣人を愛しなさい』(レビ19:18)と。愛は隣人にはどんな悪をもしない。かくして愛は律法の成就である」ヴィルケンス訳
 「借りがある」は、「負い目がある、借りがある」と「義務がある」との二つの意味がある。キリスト者は相互の愛を自分たちの周囲のすべての人間に示すべきである。この愛は善であり、市民的な共同生活の眼目であり、1~7節との関連では国家権力はこの善の守り手である。パウロはこの善を、他者、すなわち隣人への愛において、律法が成就されたという考えをもって、根拠づけている。パウロが考えているのは、律法のすべての戒めがレビ19:18の《愛の戒め》によって総括されるのであるから、私たちが隣人を愛することで、律法が《成就された》(完了形)ということであった。パウロはガラ5:14でも同じことを言っている。この総括の仕方は、ユダヤ教のラビたち、ラビ・アキバやヒレル(パウロと同時代の偉大なるラビたち)などの見解でもあり、パウロはこの総括の仕方を彼らから受け継いだのであろう、と解釈されている、ヴィルケンス。
 この総括の仕方には重要な問題が存在する。
 イエスも、パウロもむしろ「律法の成就」を説いた。マタイ5:17、ロマ3:31、ガラ5:14など。ところがトーラー・律法をどのように総括するかという問題になると三つの異なる立場がある。一つは、マタイ22:34~40で、神への愛と隣人愛と二つに総括する見解である。申命6:5「聞け、イスラエルよ」とレビ19:16が引用されている。しかもそこでは「神への愛」は「第一の戒め」つまり「最大の戒め」とされた。第二の立場は、これと同じでユダヤ教のラビたち、パウロの時代のラビ・アキバやヒレルの見解であった。ヒレルらはトーラーの戒めを黄金律、隣人愛に総括できるとした(パウロと同じ)。と同時に、彼らは「聞け、イスラエルよ」=神への愛をかたく堅持した。
 第三にパウロの立場。パウロは(1)律法を「隣人愛」へと総括した。9節、ガラ5:14(そして「十戒」のうちの神に関する戒めは除外されている)。この総括の仕方をパウロユダヤ教から受け継いだ、とされている、ヴィルケンス。
 (2)しかしパウロの場合、神との関係と結びついて定められたトーラーのすべての「祭儀的礼典的な成め」の機能は失われた。ある種の「律法の廃棄」である。この点がラビたちと異なる。
 (3)パウロの場合、「聞け、イスラエルよ」すなわち「神への愛」は引用もされないし、取り上げられることもない。パウロでは神との関係全体はもはやトーラーによってではなく、逆に《信仰》をとおして規定されている、3:27節以下、ヴィルケンス。
 ニーグレンはこう解釈する、パウロが「神への愛・アガペー」というのを「好まない」のは、アガペーの根本観念からくるからで、アガペーは根本的に「自発的で、誘因のないもの」であって、アガペーという用語は神に対する人間の態度(愛)を示すのに適当ではない、それゆえ神に対する人間の態度を示すのは別の用語「信仰・ピスティ ス」 が必要である(「アガペーとエロース」)。
 パウロの場合、 神はその契約の義をトーラーによって罪ありと判定された罪人らの救いのために、キリストの贖いにおいて愛を示す行動をなされた、5:8。かくてキリストをよみがえらせた《神への信仰》が神との関係の唯一の形になったのだ。
 愛についてのパウロの見解の特徴は「神への愛の戒め」が存在しないという点にある。パウロにおいては、ユダヤ教の「シェマー・聞けイスラエルよ」に位置に「信仰」がとって代わっている。
 しかしながらパウロが神への関係と強調した信仰にとって重要なのは、「律法の成就」である。その場合、すでにみたように「律法の祭儀的部分」はパウロにおいてはその機能を失い、ただただ「隣人愛」律法全体の総括としてのものを、キリスト者への戒めとして説いている。「隣人愛」においてパウロが考えているのは、「愛の行為」である。8:3~4「神は独り子を罪の肉と同じ姿で、また肉にある罪人を審判する贖いの供え物として派遣された。それは肉にではなく、み霊にふさわしく歩む私たちの間で、律法の要求が成就されるためであった」。愛は行為として律法を成就するものである。すなわち「業による義」をパウロは説いている。「隣人愛の戒めは、その成就をもって義とされる、という意味で真剣に考えられねばならない。私たちが現実に義とされているのであるから、現実の義に歩むべきだ。私たちはみ霊に生きる、すなわちみ霊が私たちの内に生きておられるのであるから、私たちはみ霊に従って歩まねばならぬ。律法は私たちに隣人愛を要求している。私たちが神の愛をとおして救われ、この世のいかなる力も私たちをその愛から引き離すことができないからだ、ロマ8:35以下。この隣人愛に成功することは、私の《実践》ではなく、いつもながら神の奇跡である」ヴィルケンス。
 「人は 『自分自身と同様に、隣人を愛するべきである』から、この戒めは自已愛に鍵をかけて封じこめ、また人間を自己愛から救い出す。この戒めは『あなた自身のように』のほうに向うことも、そうこじつけの解釈をすることも許さない。一人の人間が自分自身を愛するところでは、永遠の鋭さをもってこの戒めは最も深い心の奥底へと侵入していく。そして自己愛を容赦せず、いささかの逃げ口上の余地も与えない。なんと驚くべことか」(キルケゴール「愛の本質と支配」)。