建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

メシアへの希望  イザヤ11:1~5

2000-47(2000/12/24)

メシアへの希望  イザヤ11:1~5

 「エッサイの《切り株》から一つの芽が出る。
  その根から一つの《若枝》が生える。
  その上にヤハウエの霊がとどまる。
  知恵と悟りの霊、神意と能力の霊、
  ヤハウエを知り、恐れる霊である。
  彼の目は外見にしたがって判決を出さず、
  彼の耳は聞かされたことにしたがって裁きをしない。
  むしろ彼は義をもって卑賎な者に判決を出し、
  公正をもって地の意気消沈した(卑しい)者を裁きをくだす。
  口の杖をもって圧制者を打ち、
  唇の息をもって不度な者を殺す。
  正義は彼の腰の帯となり、
  忠信は彼の腰の腰帯となるであろう」(11:1~5、カイザ一訳)
 「エッサイ」はむろんダビデの父の名。第一イザヤは、シオン伝承とダビデ伝承(サムエル上7:11以下など)の二つを引き継いだ。エッサイが「エッサイの切り株」となると、実に重大な意味合いをもつ。すなわち「エッサイの」はダビデ王家を意味する。また「切り株」は、このダビデ王家、アハズ王(前735~15在位)ヒゼキア王(715~686、特に前701には南王国の大部分をアッシリアに奪われ、エルサレムも包囲されたが 突然アッシリア軍は去った。イザヤの活動時期はこのころまでである)王への神の審判、さらには王家の滅亡をふまえたもの。実際上のダビデ王家の滅亡は、このイザヤの活動時期よりも100年後、前587年のことである。イザヤはここでダビデ伝承から離れて、自分の証言を「現にダビデの王座すわっている受膏者(王)と結びつけたのではなく「エッサイの切り株」から出る未来の受膏者・メシアに結びつけた」「新しいダビデ」、メシアの到来を告知したことになる、ラート。
 「若枝」は重要な用語。「若枝」はメシアを指している。黙示5:5「ダビデの若枝であるかた」、22:16「私はダビデの若枝である」。
 この来るべき王、メシアは特殊なカリスマ・賜物の持ち主ではない。むしろ第一に「ヤハウエの霊」の持続的な所有者である(2~3節)。第二に、メシアの職務は、仲裁者の職務であり、特に法的弱者の執り成しである(3~5、ラート)。「正義をもって卑賤な者に判決を出し、公正をもって卑しい者に裁きを行なう」(4節)。「判決を下すこと、裁きを行なう」は、執り成すことであって、決して罰するための審判をおこなうことではない。メシアは地上に神の法を貫徹させる職務を託されいるのだ。第三に6~9節、メシアの統治が自然界に秩序を与え、弱肉強食の解消を述べている。
 パウロは、ロマ15:11~12でここを引用している、
 「さらにイザヤはこう言っている、『エッサイの切り株に若枝が出て、その方は諸国民の支配者として立ち上がるであろう。諸国民は彼に希望をもつであろう』」ヴィルケンス訳。パウロはこの支配者・メシアへの希望はイエスにおいて成就したとみた。