建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平和研究(大学講座レジメ)2 15年戦争と靖国神社

1.「15年戦争において、靖国神社はどのような機能を果たしたか」
 参考文献:村上重良「慰霊と招魂」(1974)、「天皇制国家と宗教」(1985)、相沢建司「宗教者の戦争責任」(1995)

 

 「15年戦争」との表現は評論家・鶴見俊輔が名づけたもので、1931・昭和6年9月、関東軍参謀、石原莞爾らが中国の奉天郊外の柳条湖の満鉄の線路を爆破して「満州事変」を起こした以後、1945年まで継続された一連の戦争のこと。
上海事件(1932)、日中戦争開始(1937)、ノモンハン事件(1939、対ソ連軍との衝突で日本軍壊滅的敗北。欧米で第二次大戦勃発)。
太平洋戦争勃発(1941)、日本軍マニラ、シンガポール占領。
ミッドウエー海戦・日本海軍致命的敗北。
米軍ガダルカナル上陸(1942)、インパール作戦失敗で日本軍戦没者数万。
米軍サイパン島占領。以後米軍B29東京空襲開始(1944)。東京大空襲死者10万余。以後東京空襲、大阪、名古屋空襲数十回。硫黄島守備軍全滅。戦艦大和撃沈される。沖縄守備隊抵抗終わり非戦闘員戦没者9万人余。広島・長崎原爆投下され被害絶大。8月、政府無条件降(1945)。

(1) 東京招魂社
  1869・明治2年5月、明治維新政府は《尊皇派・「国事殉難者》、鳥羽・伏見の戦い以降の、官軍の「全戦没者を祀る招魂社を創建すること」を決定して、同年6月、東京の九段に創建された、真新しい「東京招魂社」において、戦没者3588名の招魂祭を行った。
 「招魂」というのは、自軍、自派の犠牲者・戦没者の霊を天から招いて、ねんごろに弔うもので、同志の者はその霊前で後に続くことを誓った。
戦場で倒れた者たちの供養は、普通の場合には、敵味方の別なくなされるが、この招魂社の祀りはそうでなかった。
 すなわち《敵と味方をその者の死後においても峻別し、非情にも死後まつるのは、味方のみで,敵は一顧だにしない、特異なまつりのしかた》に政府は固執したのだ。
1874・明治7年、明治天皇は東京招魂社に参拝した。
招魂社においては、戦死者の祀りは、①戦死者が招魂社にまつられ、そして②《そこに天皇が参拝すること》で、③戦死者がどのように戦って、天皇のために死んだかを同胞に明らかにして、顕彰する。これによって「死者たちの祀りは完結する」とされた。

 政府が目的にしたのは、「忠死」すなわち《天皇に忠誠を尽くして戦場において死ぬ》という思想を宣伝奨励し、遺族らの中に国家への忠誠心を養うこと。
天皇・国家への忠誠を尽くした死に方は、死ぬ者の死後、天皇・国家がその死をないがしろにすることなく、天皇・軍・同胞によって顕彰され、記憶されること。
 その戦死者が「靖国神社に合祀されること」は、天皇の名のもとに戦場におもむいて死んだ、戦没者に対する《天皇の褒賞・恩恵》を意味していた。
 それゆえ「祭神の資格は、天皇の忠良な臣民《のみに》与えられた」のだ。
  「戦争末期フィリピンのジャングルで軍隊が崩壊しつつあった飢餓状況の中で、食料を探しに隊を離れて密林に入り込み迷って、彷徨して餓死した兵たちは『敵前逃亡』とみなされて、合祀を認められなかった」
  (結城昌治の、直木賞の小説・映画「軍旗はためくもとに」1970)。

要するに天皇の軍隊の戦死者の顕彰、これが靖国神社の機能の一つであった。
そこには独特の戦争への動員の哲学も形成された。
「個は種のために死んで類によみがえる」(田辺元「種の論理の弁証法」)。
  ・・・若者が国のため、天皇のために戦場におもむいて死ぬことが家族・父母のためなのだという、青年を戦争動員に駆り立てたてた戦犯的哲学。
それゆえ天皇・政府の軍隊でなく、反乱軍・賊軍に加わって戦死した者たち、例えば
西南戦争(1877・明治10年)を起こした西郷隆盛(元陸軍大将)も1万5千余の西郷軍兵士も靖国神社には祀られていない。祀られたのは政府軍の死者6665名のみ。
 
(2) 靖国神社
  1879・明治12年6月、東京招魂社は「靖国神社」と改称され、別格官弊社に列
せられた。
(明治5年楠木正成をまつる神戸市の湊川神社、家康をまつった日光の東照宮、秀吉をまつった京都市東山区の豊国神社と同じ格)
陸・海軍、内務省の三省が靖国神社を管轄したが、明治20年には陸・海軍二省の管轄に変えられた。靖国神社と改称した時点での「祭神・祀られた者」は1万88柱という。

 さて日清戦争という対外戦争(1894―95・明治27―28年)は、おびただしい戦没者靖国神社の祭神)を出した。
 1895・明治28年12月、日清戦争戦没者を合祀する大祭が行われ、明治天皇が参拝した。しかしこの時合祀されたのは、《直接の戦死者1498名のみ》で、全戦没者の20%にも達しなかった。
すなわち1万1千余名の《戦病死者》は最初、合祀されなかったのだ。
2年後の明治31年9月、陸・海軍両大臣から告示がなされ、1万1千381名が特別合祀された。
 1904・明治37年2月、日本は朝鮮、満州の独占的な支配を争って、日露戦争
突入した。満州を戦場に両軍は戦ったが、明治38年、25万の日本軍は7万余の死傷者
を出した。日本軍は旅順要塞を陥落させたが、多大の死傷者を出した。
1905・明治38年5月、陸・海両称は招魂式をおこなった。
3―5日まで臨時大祭が執行され、天皇、皇后の名代として皇族が参拝し、また各大臣、参謀総長らが参列した。

日本がこの戦争で出した全戦没者数は未曾有のもので3万663名、日清・日露双方の戦没者と負傷者とは合計10万名を超え、その遺族の数は数十万に達した。
戦没者を祀る靖国神社への参拝者の数も年間270万人に達した(1907年度)。

宮司、賀茂百樹が「靖国神社誌」の中で、祭神を「英霊」と呼んだことから、この戦争以後、戦没者の霊を「英霊」と称するようになった。
靖国神社のこのような「英霊の合祀」のありように対して、疑問視した見解は、中央の理論的雑誌「中央公論」に公然と掲載された。
筆者は当時の東京帝国大学教授・大正デモクラシーの旗手、吉野作造(1874--1933)。
「神社参拝の道徳的意義」(1920・大正9年)。
  ・・・「靖国神社がその人物の人格、道徳、生前の所行などと一切関係なく、『戦没者を神として祀り、国民に礼拝を強制すること』は、国民の道徳を混乱させるものである。明治維新の.際の,国事殉難者として、博徒も合祀されており,戦没者の中には道徳的所行に問題ある者も《天皇の命によって死んだという一点のみで、これを英霊としてたたえ、国民の崇敬の対象とすることは、明らかに不合理であり,靖国神社の致命的弱点である》」。
 
《もう一つの重要・かつ重大な問題点》は、政府が、《靖国神社を含めて、国民に神社参拝を強制した》点である。
政府は国民の思想統制の手段として、戦争政策の継続の手段として、「宗教弾圧の根拠」として、靖国神社および神社一般の参拝を強制し、国民の思想、信教、内面の自由を圧殺した点が挙げられる。レポートでは、学生はこのポイントを展開してください。