建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅰ.囚われ人の希望-11 実存の変貌-ドストエフスキーの場合

実存の変貌-ドストエフスキーの場合 
 ドストエフスキーフランクル、ゴルヴィッツアー、ソルジェニーツィンの作品、体験記を読み比べると、フランクルとゴルヴィッツアーにおいては、囚われの体験を思索的に深めている感じはあるが、彼ら自身が実存の変貌をとげたという印象は受けない。他方、ドストエフスキーソルジェニーツィンとは、一八〇度の実存の変貌をとげたと映る。
 まずドストエフスキーの場合を見たい。
 ドストエフスキーにおけるこの実存の変貌は、フランスの空想的社会主義フーリエを信奉する立場を離れて、再び「ロシアの神」へと回帰した体験といえる。すでにみたように、彼が西シベリアのオムスクの牢獄に四年間入れられたのは、ペトラシェフスキーの主催する社会主義研究グループの集会に参加したと仲間と共に告発、逮捕されたからだ。これがペトラシェフスキー事件(一八四八、彼は二八歳)である。この時期の彼は「人道主義思想やフーリエ主義に強く惹かれていた」という(小沼文彦「ドストエフスキー」)。彼は当局の取り調べにこう述べた
 「フーリエの空想社会主義は、平和に関する体系であります。この体系は甘美な理論のゆえに魂を魅了し、人類愛のゆえに心を迷わし、その体系の見事なゆえに人は目を見張るのです。それが人の心を惹きつけるのは、人類愛を覚醒させるためです。…政治的改革はフーリエ主義のあずかり知らぬところであります」(グロスマン「ドストエフスキー年譜」一九三六、松浦健三訳)。
 とにかく彼は一九世紀のロシアのインテリゲンジャーの常として、西欧的なヒューマニズム社会主義にかぶれ、その結果、ロシアの民衆、大地、神から根こぎにされた。しかし獄中生活をとおして彼は自分の心の中を見つめ、これまでの自分、自分の思想を吟味し省察していった。
「精神的にひとりぼっちだった私は、過ぎ去った自分の全生涯をもう一度振り返り、どんなわずかなことも残らず思い起し、自分の過去に思いをひそめ、ひとりで容赦なく厳しく自分を裁いた。そして時にはこの孤独を私におくってくれたことに対して、運命を祝福したことさえあった。この孤独がなかったら、自分に対するこの裁きも、 過去の生活に対する厳しい吟味も成立しなかったにちがいない。 そのような時、私の胸はどんなに希望にときめいたろう」(「死の家」二の九)。
 彼がオムスクの牢獄でどのようにして実存の変貌をとげたかは、ドストエフスキー研究の重要なテーマの一つである。ここでは彼がフーリエ主義から離れて、ロシアの神を受け入れたことが確認できればよい。
 彼は出獄の直後、デカプリストの妻で、護送途上のドストエフスキーをトボリスクで激励した婦人たちの一人、ナターリァ・フォン・ヴィージナ夫人への手紙でこう述べている(夫人はこの一年前、流刑から解放されてモスクワの郊外に住んでいた。すでに六〇歳であった)「私自身宗教心を体験し、それを痛感しましたので、敢えてあなたに申し上げるわけですが、人間というものはそうした瞬間に『枯れかかった木』のように、信仰を渇望し、それを見い出すものなのです。それは不幸の中にこそ真理が姿を現わすものであるからにほかなりません。自分のことで恐縮ですが、私は世紀の子です。いやそれどころか、これから先も死ぬまで不信と懐疑の子なのです。この信仰に対する渇望のために、私はその代価としてどれほど恐ろしい苦悩を耐え忍んだことでしょう。その渇望は私の内部に反対の論証の数が増せば増すほど、いよいよ深く心の中に根をおろすようになるのです。そうした時、私は自分でも人を愛し、また人からも愛されているとことを発見します」(一八五四年四月づけ「書簡集」)。
 のちにドストエフスキーは《どのようにしてフーリエ主義からロシアの神への転身が実現したか》について述べている。
 「なにかあるものが、われわれ(フーリエ主義者ら)の見解、信念と心情を一変させたのである。このあるものとは、民衆とじかに接触したこと、共通の不幸の中で民衆との同胞的結合であり、自分も民衆と同じ者になったことである。…これはすぐに起こったことではなく、非常に長い時間をかけて、だんだんにそうなっていったのである。…私はおそらくロシアの民衆の根源に復帰し、ロシア人の心を認識し、民衆の精神を認知するのに、もっとも苦労の少なかった一人であるかもしれない。私は敬虔なロシアの家庭の生まれであった。物心ついて以来ずっと幼年のころからみな福音書を知っていた」(「作家の日記」)。
 ここでの「ロシアの民衆」は独特の意味合いをもっている。彼らは「神の体現者」であるからだ。彼はこの神の体現者なるロシアの民衆との接触によって神を再発見したのだ(小沼文彦「ドストエフスキー」)。
 同じようなニュアンスでドストエフスキーはこう述べている、
 「母なる大地から無理に引き離されたわが国の無神論者を転信させるものは、ただ民衆とその未来の精神力のみである」(「カラマーゾフの兄弟」ゾシマ長老の言葉)。
 「私は民衆を知つている。彼らから私は再びキリストを私の魂の中にいれたのである。このキリストを私は幼児のころ、両親の家で知り、今度は自分が《ヨーロッパ自由主義者》に変身した時に《失った》ものだった」(「作家の日記」)。
 ここでの「キリストを…失った」の翻訳は、フランスのピエール・パスカルのものだが、この翻訳だとドストエフスキーは一時的にキリスト信仰を「失った、離れた」ことになる。これに対して、オーストラリアのギブソンは、パスカルの翻訳を批判して「失おうとしていた」と翻訳して、「まだ失ってはいなかった」と解釈する(「ドストエフスキーの信仰」)。先のパスカルの「ドストエフスキー」の翻訳者、川端香男里氏もこの立場をとる。
 「先のフーリエ主義者には、 奴隷化した農民階級の宗教的観念と彼らの信奉するロシア正教こそが、 民衆の真髄に到達する唯一の道を開いてくれるものに思われた。そしてこの民衆の真髄とは、ドストエフスキーの子供のころの気分、つまり《ロシア的で敬虔な》自分の一家の素朴な信仰というものであった」(ソ連の伝記作家グロスマン「ドストエフスキー」)。
 ドスェフスキーは獄中のミーチャにこう語らせた、「流刑囚は神なしには生きていけない。流刑囚でないものよりもいっそう、それは不可能なのだ」(「カラマーゾフの兄弟」)。この発言は、彼のオムスクでの獄中体験から出た、 心からの叫びであった。