建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

洗礼者への回答

週報なしー23

タイトル:洗礼者への回答

てきすと:ルカ7:18~23 

 「ヨハネの弟子たちはこれらのこと全部についてヨハネに報告した。するとヨハネは弟子たち二人を呼び寄せ、主のもとに送り、尋ねさせた『来るべきかたはあなですか、それとも、私たちは他の人を待たなければならないのでしょうか』。その人々はイエスのもとに来て言つた『洗礼者ヨハネが私たちをあなたのもとに遺わして尋ねさせています。来るべきかたはあなたなのですか、それとも私たちは他の人を待たなければならないのでしょうか』と。その時、イエスは多くの病人と障害者(欠陥のある人)と汚れた霊につかれた人を癒され、多くの盲人に視力を与えられていた。そこでイエスは使いの者たちに答えて言われた。
 「行って、あなたがたが見たこと聞いたことをヨハネに報告しなさい。
  《盲人は見えるようになり、
   足の障害者は歩き回り、
   らい病人は清くなり、
   耳の障害者は聞き、
   死人はよみがえらされ、
   貧しい人は福音を宣教されている》
  私につまづかない人は幸いである」

 

 先のマタイ12:28「私が神の霊によって惡霊を追い出しているなら、神の国はあなたがたのところに到来しているのだ」は、イエスの悪霊追放が「神の国の到来」と密接に関わっていることを、イエスご自身が語られたのと同様、この箇所はイエスによる病気の癒しをイエスご自身がどう見られておられたかを示すもので、きわめて重要である。
ハネの弟子たちは、イエスの説教(6:20以下)癒し奇跡の話・噂(7章前半)を聞いて、おそらく獄中にいた(3:18以下「領主へロデはヨハネを獄に閉じこめた」、マタイ11:2「ヨハネは獄中にいて」)洗礼者ヨハネに報告したところ、彼は弟子の二人をイエスのもとに派遣して、質問させた「来るべきかたはあなたなのですか、…」。「来るべきかた」という表現は、ヘブル10:37にハバク2:3(70人訳)の引用で出てくる。「もう少しすれば、来るべきかたはお見えになる」。「来るべきかた」が神を示す例では、黙示録1:4、8など。また詩篇118:26「主のみ名によって来るべきかたはほむべかな」(70人訳)では、メシアの意味で用いられている。しかしユダヤ教にしても原始キリスト教でも、この語はしょっちゅう使われる語ではなく、このヨハネの言い方には、先のハバククの箇所のニュアンスがある。
 19節後半の「他の人を待ち望む・プロスドカオー」は当時のユダヤ教の普遍的な待望を表している(シュールマンの注解)。他の箇所では、ルカ2:25「シメオンはイスラエルの慰めを待ち望む」、38節「エルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人々」、3:15「民衆は救い主を待ち望んでいた」、23:51「彼・アリマタヤのヨセフは神の国を待ち望んでいた」など。
 ヨハネの問いにある「来るべき方」が、「王的メシア」のことか、「救済者」のことか(先のルカ2:38、3:15)、「来るべきエリア」(マタイ11:14)、「来るべき預言者」(ヨハネ6:14)かは、ここだけでははっきりしない。洗礼者自身は、ルカ3:15で「洗礼者より力のあるかた」への待望を語り、その人物が「聖霊と火とによっておまえたちに洗礼を授ける」、つまり終末時の救済者について語ったが、ここでの問いはヨハネの待望が今成就したのかどうかを尋ねたものと解釈できる。
 21節にある「病気・ノソス」については、マタイ4:23では「あらゆる病気・ノソス、わずらい・マラキア」とあり、「マラキア・わずらい」のほうは「弱さ、病弱」のこと。イザヤ53:3の「病をもつことを知つていた」の「病・病弱」はこのマラキヤが用いられている(70人訳)。「障害者・マスチゴーン」は本来、鞭打ちなどの懲らしめを受けること(マタイ10:17)、転じて肉体的欠陥、障害のある人。障害に苦しむ人の意味もある(協会、塚本訳)。中風の者(5:17以下)、手の障害者(6:6以下)、らい病人の癒し5:12以下をふまえたもの。汚れた霊・悪霊につかれた者の癒しについては、4:40以下、6:17以下。盲人の癒しについては、ルカではここが初めて。
 22節「あなたがたが今見ていること、聞いていること」は、前のイエスによる癒しの行動と言葉(23節)を指している。イエスが「答えた」は、したがって23節を内容としている。それは預言
者イザヤの預言に言及している。


           ルカ                                            イザヤ                      
  盲人は見えるようになり         盲人の目は開かれ(35:5、29:18)
  足の障害者は歩き回り            足の障害者は鹿のように飛び走り(35:6、29)
  らい病人は清まり                         (なし)               
  耳の聞こえない人は聞こえ     耳の聞こえない人の耳は開けられる(35:5、29:18)
                                                  もの言えぬ者の舌は歓声をあげる (35:6)
  死人は生き返えらされ            あなたの死者は生き返り(26:19)
  貧しい人は福音を宣教されている      貧しい人に福音を宣教する( 61:1)

                  

 このうち「死人のよみがえり」はイザヤ26:19からの引用であり、終末時、「その日」(26:1、29:18)起こる出来事である。ルカ7:11以下にナインの若者の蘇生がある。イザヤ35章の「盲人、足の障害者、耳の障害者」の癒しも、終末時の出来事である(「その時」5節)。そこでは、自然の変容が起こる「砂漠は喜び花咲き乱れ歓呼して喜び歌う(1~2節)、荒野に水が湧き、砂漠に川が流れる(6節)、乾いた土地は泉となる(7節)」。また神による救いの時の到来「神はあなたがたを救いたもう(4節)・・主に救われた者が帰ってきて(10節)」への「宇宙的歓喜」の預言の文脈で先の癒しが言及されている。
 イザヤ29:18以下も同様に「喜びのトーン」が響いているーー「その日、耳の聞こえない者は書物の言葉を聞き、盲人の目は暗闇の中から見るようになる。柔和な者(貧しい者・プトーコス)は主によって新たに喜び、貧しい者(絶望した者・アペールピスメノス)はイスラエルの聖者(神)によって喜ぶ」。イザヤ35章には「貧しい人」への言及がなかったが、この29章では、2回も出てくる。
 61:1の「貧しい人への福音の宣教」は、ルカ4:18でも引用されてるが、この事柄は「主の恵みの年の到来」イザヤ61:2、ルカ4:19の時点で起こる。「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたの(だけの)ものである」ルカ6:20(ここの「だけ」という語は原文にはないが、文頭に置かれて強調されている。これはアラム語からギリシャ語への翻訳時に起こった省略による、エレミアス)
 「らい病人の癒し」については、イザヤ書からの引用がない。らい病人はしばしば病人の代表的存在であったためらしい(ルカ4:27には旧約聖書のナーマンのらい病の癒し5:12以下にもイエスによるらい病人の癒しの記事がある)。
 洗礼者の使者たちは、イエスの癒しの業、宣教の言葉を「見ること聞くこと」をとおして、このようなイザヤの預言・約束が今やイエスにおいて「成就・実現した」ことを知るに至った。ルカ4:21「今あなたがたが聞いたこの聖書の言葉は今日成就した」は、イエスの宣教についてご自身で語られたものだが、ここでは、貧しい者への福音宣教よりも癒し・イエスの力ある業、「キリストの業」(マタイ11:2)のほうに力点が置かれている。イエスの癒しの業は預言者たちによって預言された、終末時における救いの時の開始・到来を告げるものである。この救いの時の到来は「歓喜の叫び」がふさわしい。イエスの癒しの業が、イザヤの預言から明らかなように、終末時のメシアの性格をもっているからである。ーーこれが、イエスご自身がその癒し奇跡についてもっておられた考えである。