建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ナザレにて  ルカ4:14~30

1998-21(1998/5/31)

ナザレにて  ルカ4:14~30

 「そしてイエスは御霊によって、ガリラヤへお帰りになった。そしてイエスの名声は周囲全体に広まった。イエスは諸会堂で教え、あらゆる人々によってたたえられた。イエスはご自分の育ったナザレにやってきた。イエスは習慣に従って、安息日に会堂に入って、聖書を読むために立ち上がった。預言者イザヤ書が手渡された。イエスがそれを開かれると、次の箇所があった。『主のみ霊が私の上にある。主が私にあぶらを注がれたからだ。貧しい者たちに福音を宣教するために、主が私を遣わされた。囚われ人に釈放を、目の見えない者に視力の回復を告げ、心の砕かれた者を自由の中に解き放ち、主の喜びの年を告げるためにである』(イザヤ61:1、以下)。イエスはそれを巻いて仕える者に手渡し座られた。そして会堂のすべての人の目がイエスに向けられた。そこでイエスは彼らに語り始められた。『あなたがたが耳にしたこの聖書の箇所は、今日成就した』。すべての者がイエスに賛辞をおくり、イエスの口からでた恵みに満ちた言葉に驚いて言った、『この人はヨセフの息子ではないか』。
 イエスは彼らに語られた『とにかくあなたがたは私にこの言葉・諺を言うことであろう《医者よ、自分自身を癒せと。カペナウムで起きたと私たちが聞いたことすべてを故郷のここでもやってみなさい》と。そして言われた、『まことに私はあなたがたに言う、いかなる預言者も故郷では歓迎されない。ほんとうに私はあなたがたに言う、エリヤの時代、3年半の長きにわたって天がとじて全地に大飢鐘が起きた時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはシドンのサプレタのやもめの女性以外には誰のもとにも遣わされなかった。また預言者エリシャの時、イスラエルには多くのらい病人がいたが、彼らのうちでシリアのナアマン以外の者は誰も癒されなかった』(列王上17:9、列王下5:14)。そして会堂にいたすべて者はこれを聞いて、憤激に満ち、立ち上がって、イエスを町の外に追い出し、町が建っている丘の坂のところに連れていき、突き落とそうとした。しかしイエスは人々の真ん中を通って、去っていかれた」ボフォ訳
 この箇所は、明らかに14~22節が一つのまとまりであるが、カペナウムやナザレの《ユダヤ教の会堂》におけるイエスの説教を述べている、「教えた」(15節)。イエスが規則的に会堂を訪れるのは、「ユダヤ人の習慣に従って」のことだ。その会堂で、通常ではないことが起きた、「聖書を読むために立ち上がった」、ユダヤ教は信徒にも、ラビにも、聖書の朗読などを許していた。
 イエスがお読みになったのは、イザヤ61:1以下である。ルカの引用は70人訳によっている。ただこの引用では「心の悲しみを癒すため」(61:1)を除いて、かわりに「心砕かれた者を自由の中に解き放ち」(58:6)を付加している。また「目の見えない者に視力の回復を告げ」も61章にないが、35:5「その時、盲人の日は開かれる」からの付加であろう。
 イザヤ書は「主に油注がれた者:受膏者=メシア」(18節)なる預言者について述べているが、イエスはこのメシアをご自分に見立てておられる。「イエスは《権威ある預言者》をもって自らを任じていた」(エレミアス)。このメシアの特徴は三つあって、一つは「主の御霊が私の上にある」(18節)、このメシアは王的なメシアでなく「御霊の担い手」である、誕生(1:35)洗礼の時(3:22)荒野(4:1、14)。もう一つは、このメシアはもはや待望の対象ではなくなった点。「聖書のこの箇所は《今日成就した》」21節。第三に、メシアの使命であるが、「福音を宣教する」18節。この福音の内容は「解放」の実現である。「貧しい者」「目の見えない者」「囚われ人」「心の砕かれた者」に《苦しみからの解き放ち》を告げることにある。
 ナザレの会堂でイエスの言葉を聞いた人々にイエスへの尊敬・賛辞と「驚き」が巻き起こった、22節。22節後半「この人はヨセフの息子ではないか」はマタイ13:55、ヨハネ6:42にもあるが、イエスがどうしてこのような預言者的発言をできるのかを怪しみ疑うナザレの聴衆の気持を示している。
 23~30が後半。23節は人々の反応に対するイエスの「皮肉の言葉」である。24節はよく知られた言葉「いかなる預言者は自分の故郷では歓迎されない」。イエスが主の恵みの年の説教をナザレでしても、その説教はナザレでは受け入れられなかった。
 25~27。そしてイエスは、預言者エリアがフェニキアのシドンのやもめだけを救った話、預言者エリシャがシリアのナーマンのらい病のみを癒した話をされた。このような初期の預言者たちも、シドンやシリア、すなわちイスラエル以外の地で活動した。そして強調点は、エリア、エリシャの「異邦人伝道」について、ご自分の民イスラエルが神を拒絶したところで、神は異邦人への道を開かれたことをイエスは指し示された点にある。ナザレの聴衆はこの話で針で突きさされたような思いをしたのであろう。
 28~30。聴衆全員は「憤激に満ちて、イエスを町の外に追い出し、引立ててて丘から突き落とそうとした。しかしイエスは人々の真ん中を通って去っていかれた」。イエスの活動の一番最初の時点でイエスは故郷の町ナザレの人々から殺されかけたのだ。しかしまだ受難の時は来ていない。