建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

いなくなった羊の譬  ルカ15:1~7

1999-11(1999/3/14)

いなくなった羊の譬  ルカ15:1~7

 「さて、取税人や罪人らすべてがイエスの話を聞こうとして近寄って来た。するとパリサイ人と律法学者らがぶつぶつつぶやいて言った『この人は罪人を迎え入れ、食事まで一緒にしている』。そこでイエスは《彼らに》次の譬を話された、
 『あなたがたのうちの誰かが百匹の羊をもっていて、そのうちの一匹がいなくなった時その人は99匹を野原に残して、いなくなった羊を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか?そしてそれを見つけると、喜びに満ちて、自分の肩にのせて家に帰り、友人や近所の人たちを呼び集めて、人々に言うであろう <私と一緒に喜んでください。いなくなった《私の羊》を私は見つけたのですから>。私はあなたがたにいう、このように悔い改めた一人の罪人について、悔い改めを必要としない99人の義人以上の喜びが天にはあるであろう』」
 並行記事はマタイ18:12~14。
 この譬がどのような文脈で(1節)語られたかを把握することが、重要である。並行記事マタイ18章で、イエスが話されているのは「弟子たち」であり、「迷える羊・すなわち(イエスや教会の)教えに背いた兄弟に対する教会の牧者・指導者のあるべき行動」について語っておられるのに対して、ここではイエスは明らかに「パリサイ人と律法学者すなわち敵対者」に向って話しておられる。
 イエスの「取税人や罪人らとの交流」は当時のユダヤ教の体制を支える人々に激しい批判を巻き起した。「取税人」はユダヤ教世界では「公の交流から遮断されていた」。また「罪人」は(1)「地の民」(律法に無知な集団)のことではなく、不道徳な生活をしている人、犯罪者、詐欺師、姦夫(ルカ18:11)(2)職業に関連したものであって「軽蔑された職業の人」、取税人、遊女(マタイ21:31)、羊飼い、行商人などが入る。彼らは「社会的に差別・軽蔑されて」交わりから締め出され、かつ官職につことや裁判での証人になれなかった。言い換えると「ユダヤ教の神から見離された人々」であったといえる。取税人や罪人を締め出すことでユダヤ社会の体制を保持するのが、パリサイ人や律法学者の立場であった。
 ところがイエスは交流を禁じられていた「取税人や罪人を(家に)迎え入れ、(呼ばれていって)彼らと食事を共にした」(ルカ15:2)。これはユダヤ教の体制を掘り崩す行為であった。「イエスのもとに取税人や罪人らが、話を聞こうと近寄ってきた」1節。パリサイ人や律法学者らはイエスの行動をこう批判した。「イエスは取税人や罪人らの友だ」(ルカ7:34)と。
 さて百匹の羊を所有している羊飼いについて 百匹の羊の所有者は、裕福ではなく、貧乏でもない経済的には中位に位置し、人は雇えないという(エレミアス)。裕福といわれるのは三百匹ぐらいの規模の所有者。羊飼いは夕方群れを囲いに入れる時、必ず数をかそえて、失われたものがないかどうか確認した、ヨハネ10:1~4。そしていなくなった羊がいた場合、群れ(99匹)の番を他の羊飼いに頼む。4節の「99匹を野原に残しておいて」は決して「放置して」という意味ではないであろう。
 特に4節の言葉「いなくなった1匹を見つけ出すまでは捜さないあろうか」は印象的。なぜこの1匹はいなくなったかかは「見つけるとその羊を肩にのせて家に帰る」(5節)から明らかで、その羊は特に弱かったからだ。イエスはご自身が今交流されている「取税人や罪人」とこの「いなくなった羊」を同一化されている。「イスラエルの失われた羊」(マタイ15:24)として。
 他方、羊飼いの行動そのものは、エゼキエル34:11~16の言葉を想起させる。
 「主なる神はこう言われる、見よ、私は自らわが羊を尋ねて、これを搜し出す(11節)…私はわが羊を飼い、これを伏させる。《私は、失せたものを尋ね、迷い出たものを引きもどし、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする》(15~16節)」。
 ルカのこの箇所では、羊飼いイエスは「失せたものを尋ね、迷い出でたものを引きもどす」イスラエルの牧者なる神にご自分をなぞらえ、イエスは「いなくなった1匹の羊」すなわち「取税人や罪人」を「わが羊として《捜し尋ねる》存在である。これに対して、イエスの行動を批判するところの「律法学者、パリサイ人」はエゼキエル34:8~10「わが牧者はわが羊を尋ねず、牧者はわが羊を養うことをしない。それゆえ牧者らよ、私は彼らに私の群れを養うことをやめさせる」が妥当する。
 譬の結びの6~7節は重要である、6節「私と一緒に喜んでください 私はいなくなったわが羊を見つけ出したから」「わが羊」「失われた者」を搜して連れて帰るのがイエスの務めである。
 7節では羊飼いのこの喜びは「神の喜び」に転調されている。「悔い改めるただ一人の罪人のゆえに、悔い改めを必要としない99人の義人以上の《喜びが天にある》であろう」。マタイでは「彼はこの1匹(の発見)を、迷わなかった99匹以上に喜ぶであろう」(18:13)とあって「羊飼いの喜び」はイエスの喜びに直結している。
 7節の「悔い改め」について。洗礼者ヨハネは罪人が《悔い改めた後に》、彼らを受け入れたが、これに対しイエスは罪人が《悔い改める前に》彼らに受け入れた(救いを与えた)。悔い改めは神が恵み深い方であることを知ることである(弱い1匹は強い99匹以上のものであるとの見方)。取税人や罪人はイエスをとおして神の恵み深さを知つた。それは弱り果て歩けなくなって、羊飼いの肩にかつがれて帰る、失われた羊によって体験されたものであった。この体験によって彼らはイエスの方向へと近寄った(1節)。これがいわば彼らの悔い改めである。7節の「天における喜び」は罪人の悔い改めを喜ぶ《神の喜び》を言っている。しかもルカはほかに「《喜んで》その1匹を肩に乗せて」(5節)「私と一緒に《喜んで》ください」(6節)と神の喜びを強調している。パリサイ人が排除しようとした「取税人や罪人」をイエスは「私の羊」と呼び(6節、エゼキ34章では多数)、彼らとの強い密着感を示された。神のこの喜びには律法学者 パリサイ人も対抗できなかった。
 この譬の根幹はこの「喜び」であり、ルカにおいては《イエスはこの神の喜びについて語られた》。これに対してマタイにおいては、むしろ《羊飼いイエスの喜び》を強調している。「このいなくなって捜し出された一匹を、迷わなかった99匹以上に、彼は喜ぶであろう」と。どうか現代のキリスト者も、もはや足が傷つき歩けなくなっていなくなった羊を羊飼いイエスが捜し出された時の「イエスの喜び」、イエスの肩に乗せられてはこばれた時「その羊が体験した喜び、神の恵み深さ」を味わうことができるように。