建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ザーカイの回心  ルカ19:1~10

1999-23(1999/6/13)

ザーカイの回心  ルカ19:1~10

 「イエスがエリコに入り、そこを通っておられた。すると見よ、ザーカイという名の男がいた。彼は取税人の頭で、金持であった。彼はイエスがどいう人か見ようと強く望んだが、群衆のために見ることができなかった。背が低かったからだ。そこで彼は先のほうに走っていって、桑無花果の木に登った。イエスがそこをお通りになるところ見るためであった。イエスがその場所にこられると、見上げてザーカイに言われた『ザーカイよ、急いでおりてきなさい。今日私はおまえの家に泊まることになっているから』。するとザーカイは急いでおりてきて、喜んでイエスを迎えた。これを見ていた人々はみなぶつぶつつぶやいて言った『イエスは罪人のところに立ち寄って、宿を取った』。しかしザーカイは進み出て、主に言った『主よ、私は財産の半分を貧しい人たちに与えます。誰かからゆすり取ったものは4倍にして返します』。イエスは彼に言われた『今日救いがこの家に与えられた。彼もまたアブラハムの末だから。人の子が来たのも、失われたものを探して、救うためである』」。
 ここもよく知られたルカ伝のみの記事。ザーカイは単に「取税人」ではなく、その頭・元締めである。ある特定の地域の徴税を最高金額でローマから落札して、部下の取税人たちを使って、できるだけ高額の税を集めさせ、そのうちの一定額はローマに、残りは取税人への賃金と自分の収入となる。ザーカイはザカリアの短縮形。清い、罪のない、の意味もある。彼が「金持」と言われているのは、徴税によって財をなしたという意味であり、また金持でないと、徴税を引き受ける取税人の頭にはなれない。彼の財産がまともな取引で蓄積されたものでないことは、「ゆすり取ったもの」8節、3:13~14「きまったもの以上」に取る、「しぼり取る」からもわかる。金持ではあったが、取税人の頭として、彼はユダヤ教社会では軽蔑されていた。イエスが交流された罪人とはこれらの「取税人」であった。とにかくザーカイは金持ではあったが、社会的な地位・名誉だけは与えられなかった。
 エリコ(公的な税関があった)を通過されるイエス「群衆」は関心をもって見物した。このザーカイがなぜイエスに興味をもったのかはしるされていない。洗礼者ヨハネにもとで取税人も洗礼を受けていた、3:14。ザーカイ自身も洗礼者の運動や、イエスの活動に無関心ではおれないもの、不満やルサンチマンを抱いていたろう。イエスが取税人と食事を共にした噂は聞いていたろう。群衆はザーカイの接近を受け入れないであろうが、ザーカイは彼らの反感などものともしなかった。また背が低かったので「イエスの姿を見る」ことができなかった。そこで彼は道の先のほうに走っていって桑いちじくの木に登った。彼の必死の行動が伝わってくる感じがする。
 イエスがその地点にこられて、木の上の彼の姿をごらんになった。この時ザーカイは決定的な声を聞いた「ザーカイよ、急いでおりてきなさい。今日おまえの家に泊まることになっているから」5節。「泊まる」は晩餐の交わり以上に「親密な交流」を意味するが、それをイエスのほうから申し出がなされたので、ザーカイは願いがかなって、喜びで満たされた。ザーカイは急いでおりてきて、イエスを家に迎えた。取税人とイエスご自身とのやりとりが具体的にしるされたのはこの箇所だけである。
 これを見ていた人々は「みな」イエスが取税人のような罪人の家に宿をとったとイエス一行を批判した。「取税人を交わりから遮断するとの掟」をイエスが踏み越えなさったからだ。9節「この人もアブラハムの末裔である」は、取税人をアブラハムの末裔から締め出した当時のユダヤ教体勢への批判である。
 ところがザーカイの家の中では別のことが起こっていた。イエスは取税人の頭の家に泊まるという愛の行為・申し出をしたことが、人からつまはじきされてきたザーカイの心をゆさぶったのだ。ザーカイはイエスを「主」と呼んで、財産の半分を貧しい人に寄付すると申し出た。「進み出て」8節は彼の決意を示す。「ゆすり取ったもの」は、税額をごまかして定められた額以上に税を徴収すること。さらに「ゆすり取ったものを4倍にして返す」は規定1・2倍であったから、ザーカイの回心ぶりを明らかにしている。金儲けよりも施し・寄付のほうが意義があることを彼は知つたのだ。
 9節「救いが今日この家に来た」は、ありえないように思える取税人でさえ神との信実な関わりが実現する、神の国の到来の内容である。「ザーカイの家」に救いが到来したは、ザーカイのみならず、その家族、使用人にもという意味。
 10節「人の子が来たのは、失われた者を探して、救うためである」。「失われた者」とは宗教的にみて「滅びうせた者」。さしあたり、罪人、取税人、遊女らである。「探して」は羊飼いのイメージであるが、人が救いにいたるには、ザーカイのように人間の側があらゆる限りアクティブに救いをもとめて行動する「木の上のザーカイ」ことが求められる。この果敢な行動にイエスがおこたえになったのではない、イエスはザーカイが悔い改める以前にザーカイとの交わりをなされたからだ。人の行動に対してイエスの受け入れは先行している。