建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

悪い小作人の譬  ルカ20:9~19

1999-25(1999/6/27)

悪い小作人の譬  ルカ20:9~19

 「ところでイエスは民にこの譬を話し始めなさった、
 『ある人がぶどう畑を作り、小作人たちに貸して、遠いところに旅に出かけた。ちょうど収穫時になったので、その人は小作人のもとにぶどう畑の収穫の分け前を(借地料として)納めさせるために僕を派遣した。しかし小作人たちはその僕をなぐり、手ぶらで追い返した。そこでまたふたり目の僕を送った。彼らはその者をもなぐりつけ、侮辱して手ぶらで追い返した。さらに第三の者をつかわすと、彼らはこの者を怪我をさせて、そこから放り出した。そこでぶどう畑の主人は考えた、<どうすべきか。私の愛する息子をつかわそう。彼らはおそらく彼を恐れるだろう>。彼を見た時、小作人たちは互いに相談して言った<この者は相続人だ。彼を殺してしまおう。そしてその財産をわれわれのものにしよう>。そして彼をぶどう畑の外に放り出して、殺してしまった。ぶどう畑の主人は彼らをどうするだろうか。主人は来て、これらの小作人を滅ぼして、ぶどう畑をほかの人に与えるであろう』。
 人々はこれを聞いて驚いて言った『とんでもない、そんなことが』。イエスは彼らをじっと見て言われた『では聖書にこう書いてあるのはどういう意味か。ーー《大工たちが役にたたないと捨てた石、それが隅の土台石になった》(詩118:22)。その石につまずいて倒れる人は一人残らず打ち砕かれ、その石が倒れかかる人は粉微塵になるであろう。この時律法学者と祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこの警を言われたことを知って、怒ってイエスに手をかけようと思ったが、民が騒ぎ出すの恐れた」。
 並行記事はマタイ21:33~46、マルコ12:1~12。
 9節「ぶどう畑」はイザヤ5章の「ぶどう畑についての愛の歌」をふまたもので、特に「万軍のヤハウエのぶどう畑はイスラエルの家であり、ヤハウエがそこに植えられたものはユダの人々である」(イザヤ5:7)がこの警の前提とされている。
 この譬でも「ぶどう畑」は明らかにイスラエルであり「小作人」つまり自分の土地を所有していないで、その土地を借りている人、だから彼らは普通の「農夫」ではなく、さしあたり「イスラエルの支配者・指導者たち」である、後述。ぶどう畑の「持主」は神。
 10~11節。ぶどう畑の持主は「僕」をつかわして、契約に基づいて、収穫物の一部を借地料として納めさせようとした。しかし小作人らは、その僕をなぐりつけて、手ぶらでかえした。すなわち小作人らはぶどう栽培に成功したことで高慢となり、持主との契約を無視して土地の借地料を納めるのをやめてなりふりかまわず、収穫物すべてを自分たちだけで確保しようとした。そして第二、第三の僕をも同じようにな目にあわせた12節。この僕は誰であろうか。これは明らかに預言者たちと彼らがたどった迫害の運命を示している。マタイ21章では「僕は複数でその派遣は2回」、1回目で僕は虐待、石打(歴代下24:21)、殺害されたが、預言者たちを意味しているとみなされている。ルカ13:34参照。
 13~14節、持主は「わが愛する息子」を派遣した。これは「最愛の独り子」という意味。彼らがこの息子を特に「《ぶどう畑の外に》引き出して殺した」は、へブル13:12以下などにあるように、イエスエルサレムの外で殺されたことを暗示している「イエスも門の外で苦難を受けられた」。この「息子」がイエスを指すことに反対する解釈もあるが(エレミアス、それによれば、息子は族長ヤコブを指すという)、用語的に「愛する者なるわが息子」というここの表現は、イエスが洗礼を受けられた時の天の声にも出てくる、ルカ3:22、マタイ3:17。
 そこで持主はきて、小作人たちを滅ぼすだろう、16節。これはイスラエルの滅亡を指すと解釈されてきた(後70年)。
 また「ぶどう畑を《他の者たち》に貸した・与えた」はイスラエルの指導者たちではなく貧しい人々(エレミアス)を意味するとの解釈もある。マタイ21:43「神の国はあなたがたから取り上げられて、神の国の実を結ぶ(ほかの)国民に与えられるであろう」これは神によるイスラエルの棄却と異邦人の選びと解釈できる。ルカ伝では「他の人」が誰をさすか明らかではないが「異邦人教会」と解釈されてきた。
 17節の引用は詩118:22「大工らが捨てた石は隅の土台石になった」。「大工らの捨てた石」の大工はイスラエル一般ではなく、指導者をさしている。しかも彼らは「その石につまずいた」(18節)、「石」は救世主・イエスをさすから、彼らはイエスにつまずいたのだ。彼らの運命「ひとり残らず打ち砕かれる」はエルサレムの崩壞(後70年)の予言。19:43~44。
 19節に至ってはじめて、この譬の「小作人」の正体が明らかになる、「律法学者と祭司長たちは、イエスが自分たちに当て付けてこの譬を言われたことを知つて、怒り…」。
 ドットの解釈によればこうなる、マタイ23:34「最初の義人アベルの血から聖所と祭壇との間であなたがた(の祖先)が殺したゼカリアの血に至るまで、地上で流されたすべての正義の血があなたがたに負わされる」とあるが、この譬は、神とイスラエルの歴史を神が遣わした預言者たち、アベルの血からゼカリアの血に至るまで、彼らをイスラエルの指導者が迫害と殺害とを加えた歴史として総括されて、さらに預言者らの後継者たる、神の最愛の独り子イエスに加えられようとしている殺人的暴力によって、イスラエルの指導者たちの神への反逆が今やその頂点にさしかかっている点を指摘しようとしている。
 文脈的にも、ここは、イエスエルサレム入城、宮清め、19:28以下。特にユダヤ教当局者の対決が強まる状況でこの譬は語られている。ある種の受難予告である。