建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

クロス王  イザヤ44:28~45:1

週報なしー52

クロス王  イザヤ44:28~45:1

 バビロニア捕囚の時期、活動した預言者は二人いた。一人はエゼキエル(前593~571頃活動)、もう一人は第二イザヤである。第二イザヤとは、イザヤ40~55章までを書いた無名の預言者で、やむをえず第二イザヤと呼ばれる。彼の活動時期は、550~538年ころである。
 バビロニアはネブガドネザル王の死後(562)、急速に衰えた。代わってペルシャのクロス王が台頭してきた(クロスについてはへロドトスの「歴史」に詳しい)。クロスはメデア(北部メソポタミアの、彼の祖父の王国、彼の母はその娘)を征服(前550)、次に、リュディア(トルコ西部の王国、当時の王は有名なクロイソス、いずれもへロドトス)を征服した(547)。残る大帝国はバビロニアのみとなった。実際、クロスはバビロニアをも滅ぼした、539年のことである。捕囚のイスラエルにとってこのクロスは忘れがたい異国の王であった。というのは、クロスは捕囚の民に祖国への帰還命令を出したからである(538、エズラ1章、6:3~5)。60年にわたるバビロニア捕囚が終ろうとしているのである。
 クロス王
 第二イザヤの預言は、歴史的な事件、バビロニア捕囚からの解放を重要な救いの出来事として語った。40:1以下。捕囚の人々の絶望をエゼキエルはこう語った、「見よ、彼らは言う、われわれの骨は枯れ、われわれの望みはついえ去った。われわれは死に渡されている」(37:11)。第二イザヤもしるしている、「しかし、シオンは言った、ヤハウェは私を捨て、ヤハウェは私を忘れられたと」(49:14)。この発言は、繁栄したバビロニアを目の前にした捕囚の民の心に、深く突きささった疑問を背景にしている。イスラエルの民がバビロニアの捕囚になっているという現実は、バビロニアの神々のほうがイスラエルの神よりも力があるのではないか、という疑問である。これは、世界の支配者は誰であるか、歴史の主は誰かという問題である。第二イザヤは初めて、異教として排除される異教の神々ではなく、神ヤハウエと比較するにたる力強い神々との対決を迫られたといえる。46:5以下。
 第二イザヤはバビロニアの神々とイスラエルの神を対比して語る、
 「ヤハウェは言われる、あなたがた(バビロンの神々)は訴えを出せ、あなたの証拠を出せ。進み出て、《起ころうとすることを告げよ》。《先のこと》が何であったを告げよ。そうすれば、私たちはそれに心をとめ、注目しよう。
 《来るべきこと》を私たちに聞かせよ。《その後に来るべきこと》を告げよ。そうすれば、あなたがたが神々であることを認めよう」(41:21~22)
 ここでは、バビロンの神々に対して神ヤハウェが論争を挑んでいる。歴史の支配者は誰か。それは歴史的な事件を「予告する能力」かつ実際「それを実現する者」であるという。ここでは歴史的事件の予告の内容は「先のこと」「来るべきこと-起ころうとすること」などと表現されているが、「先のことは」はクロス王によるリュディア征服、「来るべきこと」は、やがておころうとするクロスのバビロニア征服を指している。ヤハウェは真に歴史の支配者として預言者イザヤをとおしてその歴史事件を予告した。それは予告どうりに起きた。それがクロスによるリュディア征服である。
 「見よ、《先のこと》はすでに起きた。《新しいこと》を私はあなたがた(バビロニアの神々)に聞かせよう」42:9。
 ここでイスラエルの神ヤハウェが「用いる道具」は、イスラエルの指導者(モーセ)でも預言者でもなく、異邦人のクロス王であるという。ヤハウェは異邦人の王さえ用いて、あやつって歴史、救済の出来事を起こされる。すでにエレミアにおいても、異邦人の王ネブガドネザルを「私・主の僕」と呼んだ(エレミア27:6)。ここではもっと激しい表現がなされる。
 第二イザヤにとってクロスは「ヤハウエの牧者」「メシア・受膏者」だからだ、
 「ヤハウェは言われた、クロスについては、彼は《わが牧者》、彼はわが意志をみななしとげる、という。ハヤウェはその《受膏者》クロスにこう言われた、私は彼の右手をつかみ、 諸国民を彼に屈伏させ、王たちの剣を解き、彼の前に扉を開かせる」44:28~45:1。
 クロスはヤハウエに派遣された捕囚の民の解放者である、「あなた(クロス)は、囚人を獄屋から、暗きに座す者を牢から出させる」42:7。
 クロスの征服活動の背後には、ヤハウェのみ手が動いている。
 「わが僕ヤコブのために、わが選びしイスラエルのために、私はあなたの名(クロス)を呼んだ。あなたは私を知らないが、私はあなたを指名した」45:4。
 「私は義をもって《彼》を起こし、彼の道をすべて平らにする。彼はわが町を建て、わが捕囚を解放する」45:13。
 捕囚の地バビロニアにおいて、民は絶望の中にいた。彼らは神から忘れられたと感じていた。そのような状況の中で、第二イザヤの目は新たに巻き起こってきた国際的政治変動のうねりを感じとって、そこに希望の囁きを聞き取った。それは異邦人の一人の王クロスの目覚ましい軍事行動であった。イザヤはクロスを神の遣わされた、神の僕として把握して、その動きをかたずを飲んで見守る。そこに「神ヤハウェのなされる新しいこと」すなわち、バビロニア捕囚からの解放の予告を聞き取り、見出したからである。
 厚い頑強な捕囚の「壁」は神によって外から打ち壊されようとしているのだ。希望とは自分たちを取り囲み封じ込めている厚い壁に穴をうがつことである(マルセル)。マルセルは、この穴を穿つ行為を壁の中側の人々を想定するが、壁を穿つのは外側からのことがあるのだ。第二イザヤの場合も、捕囚の壁を穿つ者は、クロスの国際的軍事行動であって、その中にイザヤは神ヤハウェの「導き・計画」をみたのだ。この点では、エジプトの奴隷であったイスラエルモーセによって解放する「出エジプト」の視点よりも、はるかにグローバルなスケールをイザヤの使信はもっている。
 外側から捕囚の壁を穿つというテーマは、希望の歴史的な形でありうる。昔読んだマルクス主義の哲学者古在由重の「戦中日記」(1968ころ)にも同じパターンがあった。政治犯として保釈中の古在氏は、戦時下、新聞報道の連合軍イタリア上陸、ノルマンディー上陸などを手がかりに、ドイツと日本の敗北と自分たちの政治犯からの解放を読み取っていた。
 さて、クロス王のテーマで注目すべき点を二つふれたい。一つは、クロスのテーマが第ニイザヤの後半(48章まで)には登場しない点である。これはイザヤがクロス王に失望したというのではあるまい(第二イザヤ自身はバビロニアからの捕囚の解放までは活動せず、その前に活動を終えている)。 イザヤの預言活動は「ヤハウェの僕」イスラエルヤハウェによる解放に向けられている。42:1以下、44:1以下、53章など。
 もう一つは、東欧の諸国が旧ソ連軍をナチスドイツからの解放軍とみたり、連合軍を日本軍国主義からの解放軍とみるようなことを、イザヤはクロスにしなかった点。というのはすでにみたように、クロスは主のメシアではあるが、イザヤの目はあくまでもクロスを突き抜けて、ヤハウェに向けられていたからである。これがイザヤの「歴史神学」であるすなわち「イスラエルのみならず、全世界の目をクロスに向けさせたのは、ヤハウェ自身である。ヤハウェが彼を『起こした』(41:2、45:3)、彼に語りかけ、彼の名を呼ぶのである。…今や、世界の統治者のクロスがヤハウェの御心を行なう(44:28)。しかしヤハウェの世界規模の歴史計画の真の対象は、イスラエルであり、そうであり続ける。彼らのためにクロスは世界帝国を備えねばならなかった。といのは、バビロンを征服し、捕囚の民を故郷に帰らせるのは、クロスであるからだ」(フオン・ラート)。