建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死の中で神に出会うー3

パンフレット2-3

父なる神によるみ子の放棄としてのイエスの死
 ロマ8:32「ご自分のみ子を惜しまないで、私たちすべての者のために十字架の死に《引き渡したもうた》方」。ここではイエスの死を父が子を《十字架に引き渡し・見捨てた》行為として解釈されている(「引き渡す」は受難用語の典型)、言い換えると、「私たちに対する」父の愛のしるしとして解釈されている。「キリストは、父によって全く意図的に、死の運命へとゆだねられたのだ。神は破壊的な死の力へとキリストを服させられたのだ」(モルトマン「十字架につけられた神」)。さらにパウロは父なる神の愛がいかなるものからも、引き離すことのできないものだと述べている、「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにあって(働く)神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ロマ8:38以下)。

み子のご自分の引き渡し
 パウロの言葉のうち、キリストの死について述べたほかの箇所をみたい。
 パウロはイエスを「十字架につけられた方」として、宣教した(ガラテヤ3:1、Ⅰコリ1:23、2:2)。
 ガラテヤ1:4「主イエス・キリストは、私たちの罪のために《ご自分をお渡しになった》」(ここの協会訳は「ご自分をささげられた」、原語ディドミの意味は「ご自分を捧げられた・見捨てられた」、さらには「ご自分をお渡しになった」の意味がある。「引き渡す・パラディドミ」の用語と共にこれも《受難用語と解釈できる》。「イエス・キリストの救いの出来事はイエスの自己献身の中にある。まさしくこの献身においてこそ神の業が実現したのだ」(シュリーアのガラテヤ書註解)。このイエスの自己献身は、十字架の死へと自己を《引き渡すこと》であった。キリストは私たちの罪のためにご自分の生命を死へと引き渡して、私たちの罪をお引き受けになられたのだ。
 (ヨハネ3:16でもこの用語が用いられている。協会訳によれば「神はそのひとり子を《たまわった》ほどに、この世を愛してくさった」となる。しかしこれは「のん気な翻訳」である。本来この箇所は《イエスの受難・死》を想定した訳にすべきだ「神はご自分のひとり子を(十字架に)《引き渡したもう》ほど、世を愛された」と)。
 ガラテヤ2:20「私を愛し、私のためにご自分を《引き渡された》神のみ子」。ここの協会訳「ご自分を捧げられた」では意味が弱い。ここの意味は明らかに《十字架の死へとご自身を引き渡された》である。
 ロマ4:25「主イエスは私たちの罪過のために〔十字架の死に〕《引き渡された》(ここの「引き渡された」は神的受身形で受難用語、主体はむろん神)。
 ロマ8:32では父なる神の行動として「私たちすべての者のためにみ子を、《引き渡したもうた》父なる神」、Iコリ11:23「主イエスは《引き渡された》夜」。
 旧約聖書は十字架にかけられて死ぬ人間を呪いのもとにおいた、つまり「不浄なもの、神の契約の外にいる者」と説明した。ヘブル13:12~13「イエスもまたご自分の血をとおして民を浄める
ために、《宿営の外》で苦難を受けられた」という箇所も、「イエスが犯罪者の仕方で死んだこと、同時に《聖別された領域の境界の外で死んだこと》を告げている」(ケーゼマン「パウロによるイエスの死の救済的な意味」)。

 イエスの十字架の死を、パウロは一方では父なる神の行為とみなした。ロマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示された」。(Iヨハネ4:10「私たちが神を愛したということにではなく、むしろ神が私たちを愛して、み子を私たちの罪の贖いとして派遣してくださった、まさしくここに愛がある」)。Ⅱコリ5:21「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた」。
 他方ではパウロは十字架をみ子ご自身の《自発的な行為》とみた。ガラ1:4「キリストは私たちを今の悪の世から救い出すために、ご自分を(十字架へと)お渡しになった」。2:20「私を愛し私のためにご自分を(十字架に)引き渡された神のみ子」、テトス2:14「キリストは、私たちをすべての咎から贖い出すために、ご自分を(十字架に)お渡しになった」、黙示録1:5「イエス・キリストは私たちを愛し、その血をとおして私たちを罪から解放してくださった」。
 新約聖書はこのように、キリストの十字架の死を一方では「神の業」、他方ではキリストの「自発的な自己放棄」とみなしている。言い換えると、父と子の行為が一致していると考えているのだ。
 両者の行為的一致を表現した箇所が、Ⅱコリ5:19である「神はキリストの《うちにいましたもうて》、世をご自分と和解された」。神はキリストのうちにいまして、死に行くキリストおいて行動され、苦しまれたのだ。

バルトの死についての見解
 (1)バルトは述べている、神と私たちとの間には、埋め合わせのできない底知れぬ罪過が立っている。神の前での負債(罪過)隣人の前での負債(罪過)。この負債とは「とどこおり」のことである。またこの「とどこおり」とは、神との関係、隣人との関係のなかで、神から私たちに与えられた《自由を用いなかたということである》。この自由を人間が拒んで用いようとしないままにいる、囚われの状態のほうを私たちが選んでしまうこと、神に反抗すること、非人間的であることへと落ちこんでしまうこと、それが「とどこおり」である。そしてこのことが、私たちが負債〔咎〕があるということ、すなわち、そのことが『私たちの時間の終わり、私たちの死の中で、私たちに逆らって前にあることである』。詳言すれば、再び回復しがたいこの「とどこおり」の中で、私たちは存在から、非存在へと移っていくであろう」(725)。
 (2)私たちに、終わり、非存在がくるということは、ほかでもなく、《神の判決》とそれが執行されることを意味する。そしてその判決は、私たちの生が終わるということだけではなく、この生が創造主の目から《しりぞけられ捨てられること》を意味する。すなわち私たちの生が自分でなしたことの確認として抹殺され、片づけられること、破棄されることを意味している(724)。
 (3)死は《神の審判》のしるしである。死は確かに私たちに出会うが、それも罪深い、咎(負債)のある人間に出会うからだと、バルトは述べている。「人間は神の被造物として与えられた自由を用いて神の前で生きることが許されていた。にもかかわらず、人間はこの貴重な自由を用いないで、むしろすっかり濫用してしてしまった」(727)。死が出会う罪深い、咎のある人間とはこのような人間である。死は、単に運命といったものではなく、むしろ神から来る、神によって受け取られた定めである(バルトは明らかに、死を人間存在のたどる自然的な定めとはみていない)。
 (4)バルトは述べている、人間存在に終わりがあるということは、事実人間が咎あるものであるという影の中にあることを示している。私たちは死においてただ死と対峙するだけではなく、また《神とも対峙させられる》。この神は私たちに義をもち、私たちのほうはこの方に不義しかもっていないのだが。神は死において私たちが神に対して負うたままになっていることの回収をなされること、私たちが儲けたものを支払うようにと脅したもう。
 (5)死は決してそれ自身の力をもった主権者ではなく、神がその被造物に相対して正しくありたまい、《被造物が神に相対して正しくない場合にのみ死は支配する》。神が人間と、人間が神と争う空虚な領域で死は支配する(740)。
 私たちが終わってしまうところで、私たちを待っているのは、死ばかりではなく《神もまた待つておられる》(740)。真に恐れるべき存在は、死の中での死そのもではなく、むしろ死の中で神こそ恐れられるべきである。「そこのところで、私たちは死とだけ関わり合うのではなく、神とも関わりあうようになる」(740)。
 (6)「イエス・キリストなしには、私たちは死の中で神の審判のしるしの中に立つばかりでなく、救いようもなく、滅び失せることになろう」(748)。もし私たちの罪と咎がイエス・キリストの上に負わされなかったとしたら、私たちの罪咎はなおも私たちが負わされるであろうし、また《私たちの死の中で神に出会うとの慰め》は全くなくなってしまうことになるであろう。ただ《イエス・キリストにあってのみ、神は私たちの救助者、救済者でありたもう。なぜなら《イエス・キリストの死においてのみ、私たちの罪と咎からの無罪放免、また私たちの死からの解放が起きたからだ》」(748)。この箇所でバルトはキリストの死において《人間の罪の赦しと共に、同時に人間の死からの解放も生起した》と正しく把握している)。《イエス・キリストにおいてのみ、死が身にこうむられるばかりでなく、また《死が克服されたということが出来事として起こった。イエス・キリストにおいてのみ、死は私たちにとってすでに克服された敵として》だけ問題になってくる。イエス・キリストにおいてのみ、神は私たちを限界づける死の限界でありたもう。《イエス・キリストの中にのみ、私たちの希望、私たちの死の中でも、私たちの死の彼岸においても、私たちがもはや存在しなくなる時にも、すべてのことを期待することが許されるとの私たちの希望は、基礎をおいている》。まことにイエス・キリストは私たちの希望であり、私たちの未来であり、〔死に対いする〕私たちの勝利であり、私たちの復活であり、私たちの生命でありたもう(740)。

眠りとしての死
 新約聖書キリスト者の、《自然的な死》を「眠り」と呼んだ。
 「私たちの友ラザロが眠っている」(ヨハネ11:11)。復活顕現に出会った500人以上の兄弟たちのうち「数人が眠りについた」、「キリストにあって眠りについた人々」(Iコリント15:6、20)、他にIコリント1:30、Iテサロニケ4:13、14、行伝7:60、13:36、Ⅱペテロ3:4など。
 教会史において死を眠りとして把握したのは、ルターである。「私たちはキリストが来られ、墓をたたいて、マルテイン博士、起き上がれというまで、《眠つている》。その時私は一瞬のうちに復活し、キリストと共に永遠に喜ぶであろう」(「三位一体後の第16聖日の説教」ほか、1533年。引用はモルトマン「神の到来」)。
 「目が閉じられるや、あなたはすぐによみがえらされる。千年たっていても、あなたには半時間眠っていたくらいにしか思われない。夜に時鐘を聞く時、どのくらい眠っていたのか私たちにわからないように、いやそれ以上に、死においては千年も速やかに過ぎ去る。人がまわりを見回す前に、人は美しいみ使いとなっている」(引用はモルトマン、「神の到来」)。
 「神のみ顔の前では、時の計算はないのであるから、千年も神の前ではあたかも一日のようであるにちがいない〔詩90:4参照〕。それゆえ最初の人アダムは、最後の審判の前、最後に生まれた者と同じくらい神の近くにある。…なぜなら神は時を長さにしたがってではなく、むしろ時を横切つて見られるからだ。…神の前ではすべてが《またたく間に》起こる〔Iコリ15:51〕」(モルトマン、前掲書)。
 死が眠りとして把握されることは、当然のことながら、イエス・キリストの死人の中からの復活を前提としている。この前提のもとでのみ、私たちの迎える死もその姿を変貌させるのである。この死の変貌についてルターは述べた『神のみ子イエス・キリストは私たちの代わりに来られて、罪を取り除かれた。それによって死からすべての権利と力を取り去られた。死の形をとどめるものは何もない。死はその棘〔とげ〕を失ってしまった。ハレルヤ』(引用はモルトマン、前掲書)。「死はもはや終わりではなく、むしろ復活への門である」(モルトマン、前掲書)。
 「自分の死の時点から、終末の死人のよみがえりまでどのくらい長くかかるのか。ルターはこの問いに対して地上の生きている者の時間をあてはめることをせずに、むしろ神の時について『またたく間に、一瞬にして』(Iコリ15:53)と答えた。死者たちがもはや生きている者の時の中にいないで神の時の中にいるとすれば、一人の人間の死から、終末時の死人のよみがえりの時まで、どれくらいの長さがあるか。答は全く一瞬である。私たちの時で測つてみて、死者たちは『今』どこにいるのか。人はこう答えなければならない、死者たちはすでに復活と神の永遠の生命との新しい世界にいると」(モルトマン、前掲書、Ⅱ永遠の生命、4節)。

死からの解放
 死を滅ぼすことができるのは神ご自身のみである。イザヤ25:8「ヤハウェは永久に死を滅ぼされる」。「最後の敵として、死が滅ぼされる」(Iコリ15:26)。ここは神的受身形で、滅ぼす主体は神である。ではキリストはこの死の滅亡にどのように関与なされているのか。パウロはIコリ15:24以下で、「死の滅亡」について述べている。
 世の終末の折り(24節)、「キリストはすべての敵をご自分の足もとにおくまで(詩110:1)、支配し《なければならない》」(25節)。ここの「ねばならない」は神的必然、すなわち神の救済計画を示すものである。「その時キリストはその支配を父なる神にお渡しになる」(24節)。神に敵対するすべての勢力を服従させるのは、キリストであり、キリストのみが、勝利の行進に踏み出すことができる。しかしキリストは決してご自分の力で支配するのではない。むしろ神の委託によって敵対的な勢力を服従させるのであり、そのための力を神ご自身がキリストにお与になったのだ。したがって《死を打ち負かすのは神ご自身のみである》。キリストが死を滅ぼすかどうかは論争されている。ケーゼマンは、キリストの死に対する支配が〔現に存在する〕死の力をとおして反駁される、と主張している。
 シュラーゲも述べている、死の克服は、イエス・キリストの支配者的な支配の究極的な行為では《ないようにみえる》、むしろこの箇所の神的受身形(死が「滅ぼされる」)は、死の克服、死の滅亡の業が神ご自身であり、神のみのものであることを間接的に知らしめようとしていると(註解)。
 個人の死ぬべき運命の克服が、個人の死を超えた救いへの希望をとおして可能である点については論争されてはいない。むしろ死の宇宙的な力に対する決定的な勝利によって死の克服は実現する。他方、死の破壊的な支配は決して無制限のものではなく、むしろ無力化されている。その根拠として次のものがある。ロマ8:38によれば、《死はキリストの愛によって相対化されている》、「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを離すことはできない」(他にロマ14:7~9など)。
 Ⅱテモテ1:10「キリスト・イエスは《死に打ち勝ち》、福音をとおして生命と不滅性とを輝かさせてくださった」(アルフォンス・ワイザー訳)に言及したい。救済者イエス・キリストをとおして神の救いの行為において可能とされた救いの賜物は、ここでは否定的、肯定的双方が示されている。
 否定的な面では「死に打ち勝つ」である。Iコリ15:26の場合、死を滅ぼす主体は神ご自身とされたが、《ここではキリストが死に打ち勝つ》とある。しかし註解ではこの点について全く展開されていない。それゆえ私たちは先のシュラーゲの「Iコリント註解」の立場を支持したいと言いたいが、問題はそれほど単純ではない。というのは、ルター、バルトの見解はこれと異なっているからだ。
 まず先に引用したルターの見解「イエス・キリストは、私たちの代わりに罪を取り除かれた。それによって死からすべての権利と力とを取り去られた。死の形をとどめるものは何もない。死はそのとげ〔棘〕を失ってしまったのである」。
 バルトは述べている、「イエス・キリストの死においてのみ、罪と咎からの無罪宣告が、《それとともに》私たちの《死からの解放が起きたのだ》。イエス・キリストにおいてのみ、死がただ単に身にこうむられたばかりでなく、《死が克服された出来事》もまた起きたのだ」(前掲書、748)。バルトのこの見解は、先のⅡテモテ1:10「キリストは死に打ち勝つ…」を想起させる。しかしバルトのいう「死からの解放」は《滅びであるところの、第二の死からの解放》したがって「自然的な死への解放」の意味である。他方「死が克服された出来事」のほうは、明らかに《キリストご自身が、死の滅亡に関与なさっている》と解釈できる。Iコリ15:54「死は勝利に飲み込まれてしまった」は、神的受身形なので、死を飲み込む主体は神であるが、しかもここの「勝利」は明らかにキリストの復活を意味している(ルターの「第一コリント註解」)。 死の滅亡への」キリストご自身による関与は、単独のものでも、直接のものでもないが、《神のもとでの間接的な関与である》と私たちは解釈したい。
 さてⅡテモテ1:10の、救いの賜物の肯定的な面としては、福音の宣教をとおしての、不滅の生命である。「不滅・アフタルシア」をパウロは、ヘレニズムユダヤ教から受け継いだようだ。ここでは、この世に属すもののしるしである「朽ちゆくもの」の反対語が「不滅性・朽ちないもの・アフタルシア」である(Iコリ15:54参照)。この箇所では、不滅性の意味をキリスト者の現在においてすでに与えられたものと強調されている。テトス3:5以下には「キリストの憐れみによって、キリストは私たちを《再生の洗い》で救ってくださった。それは聖霊による更新である」とある。明言されていないが、Ⅱテモテ1:10の「不滅性」においても《洗礼》が考えられている(註解)。


バルトは「イエス・キリストの死においてのみ、私たちの《死からの解放》が起きたのだ」(748)と述べた、「《死からの救済》は、人間が死ぬことを免れて、死なない存在へと救われるということでは《ありえない》。むしろ〔実際に死んで滅びとしての〕死の中からの救済〔第二の死から自然的な死への解放〕を言っている」(732)。ここを読むと「少し肩すかし」と感じる人もいるかもしれない。そのような誤解は、地上的な存在様式から《地上的な存在のままで、死を経験するすることなく、直接的に存在の変容されることに望みをいだく》コリント教会の異端者の立場と類似性がある(拙著、265以下参照)。しかし考えてみれば、私たちが「死ぬこと自体から解放されること」は確かにありえない。バルトが主張した「死からの解放」は、キリストが私たちを「第二の死」から「自然的な死」へと解放してくだった点にある。しかもこの「自然的な死」への解放は「永遠の生命への解放」へと連なる決定的な解放の出来事である。
 「キリスト者らしい敬虔な死に方」というものがあるのかもしれないが、ここで死に方によってその人の生涯、信仰のありようを判断するような「行為義認」は、いやな感じのものである。20世紀にはナチス強制収容所や、旧ソ連ラーゲリ強制収容所)さらに中南米の諸政権の下でおびただしいキリスト者が「消される形で」殉教した。モルトマンは、エル・サルヴァドルで1979年に殉教た、カトリックの司教アルヌルフオ・ロメロについて述べている(「イエス・キリストの道」)。彼らの死は家族・友人に見取られることもなく、その亡骸さえ家族に引き渡されなかった。ナチズムに抵抗して殺された、神学者D・ボンヘッフアーの場合その埋葬の場が不明で、墓地さえ存在しない。「敬虔な死に方」自体がのん気すぎるテーマなのだと私たちは考える。「幸いなるかな、今より後、主にあって死ぬ死者たち」(黙示録14:13)、眼目は、「敬虔な死に方」にではなく、むしろ「主にあって死ぬこと」にある。信仰告白をし、洗礼を受け、聖餐にあずかること、そして死後の自分たちの復活を心から信じることこそ、眼目である(拙著「キリスト者の希望」第7章、289以下、キリスト者の復活への希望、参照)。